維新戦記
2012年~2015年の2年間、米山隆一氏は衆議院議員・参議院議員の候補者として日本維新の会(維新の党)に所属していました。
彼が維新で経験し、感じたことを、可能な限り客観的に書いていきたいと思います。
日本維新の会は、伸長と停滞を繰り返しながら、2021年の選挙で41議席を獲得し、ブームを起こした2012年の結党時の議席に迫りつつあります。
その中で、維新はことあるごとに「身を切る改革」と叫んで自らはお金に対してクリーンであることを喧伝していますが、彼は第1回目の衆議院選挙では使いもしないのに百万円の経費を徴収されましたし、2015年の分裂騒動では橋下氏らの大阪組は「政党交付金の国庫返納!」を叫びながら、ひたすらお金に執着し、刑事事件すれすれの事さえして資金を収奪していました。
彼らが見せている姿とその実像は、余りに食い違っています。
今、できるだけ多くの日本の未来に関心を持つ方々に、「維新の実態とはどのようなものか」を事実に基づいて理解してもらうことは、日本の岐路を選択する上で、極めて重要な事だと考え、筆を執ることとしました。
候補者面接と「内定」
「なかなかな経歴だけど、自民党で2回選挙に落ちているんだね。何が足りなかったと思う?」
2012年10月、大阪市中之島の日本維新の会本部ビルの12階で、関西弁の強い、顔色が悪く皴の多い男性の面接官から尋ねられました。
彼は、
「選挙自体は私は、いずれも惜敗だったと思います。ただ地域のキーマンへの配慮や対策が足りない部分があったと思います」と答えました。自民党時代旧知の間柄であった、松浪健太衆議院議員(当時・現大阪府議)からの立候補の勧誘を受けてものだったこともあって面接は和やかな雰囲気のまま進みました。
「分かりました。私からは以上ですが、米山さんから質問はありますか?」
この男性からそう問われ、彼は答えました。
「はい、一つだけ質問があります。比例重複立候補の順位は、小選挙区の候補者全員同列の一位という事で宜しいでしょうか? 候補者にとっては極めて重要なことですから」
「もちろんだよ」
面接官はそう答え、彼はそれを聞いて安心して部屋を後にしました。その面接官は、後に当時大阪維新の会府議団長であった、弁護士の坂井良和氏であることが分かりました。その数日後に新潟5区からの立候補者として内定する旨の通知を得て、彼は日本維新の会に入党しました。
国政進出前の熱気
この日を遡ること半年、2012年の5月、彼は自民党時代に同じ二階派で親しかった松浪氏に声をかけられ、麻布のバーに向かっていました。
瀟洒なビルの3階のドアを開けると、そこには手にグラスを持った多くの男性がおり、ある人は立ち、ある人はソファーに腰かけて、話していました。この中には、衆議院議員で官房副長官まで務めた松野頼久氏、桜内文城氏、小熊慎司氏などがいました。
会では、3年前に政権交代を成し遂げた民主党政権が震災復興と消費増税で迷走するなかで、近く予想される総選挙に向けて橋下徹大阪市長(当時)が率いる地域政党・大阪維新の会の国政進出が話し合われていました。
その会話の中では、第1次安倍内閣崩壊後、谷垣禎一氏が総裁を務める自民党で失意の身だった安倍晋三元首相が自民党の総裁選挙で勝てなかった場合、側近の菅義偉議員と共に「維新」に参加する可能性があることも取りざたされていました。
声をかけられて赴いたとはいえ、並みいる議員たちの中で、浪々の身である彼は小さくなっていました。それでも、閉塞する日本の政治を変えようという熱気をひしひしと感じました。
一期生が持っていた星雲の志
同年9月12日、大阪維新の会の代表である橋下氏が「維新八策」を発表し、世の中を覆う閉塞感を打開する新政党への期待が高まり、同年9月28日、日本維新の会が設立されました。
11月には大阪のコンベンションセンターで開かれていた「維新政治塾」の最終講義に呼ばれ、「塾生」達と初めて顔を合わせました。麻布のバーでたむろしていたスーツの男性たちとは違い塾生たちの多くは若くフレッシュで、女性の姿も目立ちました。
この時同席していた仲間に、後に参議院議員となる塩村彩夏氏(立憲民主党)、2017年に衆議院比例近畿ブロックで当選した森夏枝氏、昨年10月の衆議院選挙で初当選した青柳仁士氏(日本維新の会)などがいます。
その後立候補する大阪の市議・府議を含め参加者は一様に講師たちの講義を熱心に聞き、様々な質疑を行いました。休憩時間には連絡先をお互いに交換し、政治にかける思いを語る光景がここかしこで繰り広げられました。
この時集まった一期生の間には確かに、日本の政治を刷新していこうという純粋な、そして燃えるような青雲の志が確かにあったと思います。彼はこの時の同期の何人かとは、今でも友人付き合いを続けています。
石原新党との合流
11月16日に衆議院が解散された翌17日、観測が流れていたとはいえ、彼を含む多くの人にとっては「突如」、日本維新の会と、石原慎太郎氏率いる太陽の党の合流が発表されました。塾で会った候補者の考え方は多種多様でしたし、そこまで深く意見を聞いたわけでもないのですが、恐らく6~7割方はリベラル寄りであったと思います。
自民党時代、彼は党内では最もリベラルな立ち位置でしたから、とても驚きました。彼は困惑を感じながらも、維新の主流派はリベラルのままであり、太陽の党の出身議員の発言権はそれほどにはならないだろうと考えて、自らを納得させたことを昨日の事のように覚えています。
「百万円徴収」で感じた懸念
その後、候補内定者は直ちに大阪中之島の日本維新の会本部のビルに呼ばれ、記者会見と、選挙手続きの説明、橋下氏との写真撮影などが行われました。
ここで驚いたのは、小選挙区と比例区の供託金六百万円と合わせて、ポスター作製などの発注業者が指定され、製作費として百万円を振り込むこととされていたことでした。
彼は自民党で政治活動をしていた時からなじみの深い業者さんがおり、ポスター作りのコンセプトやコンテンツを共有していました。選挙まで1か月しかない中で、勝手を知らない業者さんと一から話をする時間が惜しいと感じた彼は、軽い気持ちで事務局に、「ポスター等は自分で発注して自分で作るので百万円はいいですよね?」と聞いたところ、その答えは
「いえ、自分で作るのは自由ですが、百万円は振り込んでください」というものでした。彼はその回答に非常に驚きましたが、党本部と喧嘩するのも得策でないと考え、
「分かりました」と答え本部を後にしました。
後に、同様の申し出をした候補が複数いたことを聞きましたが、いずれも、「ポスター作製代百万円は必須」でした。
そもそもポスター作製は、選挙対策的意味も込めて地元の業者を使うのが通常なのに、全国の候補に大阪の一業者を指定すること自体が異例な上、発注しなくても百万円を徴収するというのは、ポスター作製に名を借りて、候補者から政治資金を徴収していたと疑われても仕方ありません。
作ったばかりの政党ですから資金不足で候補者にカンパを募ることはありうるとして、それならそうと明示すべきで、このような形で資金を徴収すべきではありません。彼は早くもこの時、後に痛いほど知ることになる、彼らのお金への執着と、掲げる看板と実態に大きな懸隔の一端を、垣間見たのです。
他の候補者から漏れ聞こえてきた実情
新潟に帰り、百万円と供託金三百万円(当初は比例の三百万円も自腹との事でしたが、流石に軌道修正され、比例の供託金は党が負担する事になりました)を支払い、彼は大急ぎで選挙準備を進めました。
彼はすでに自民党で2回選挙を戦っていた経験から、選挙運動の勝手がわかっていました。全ての人員をボランティアでそろえるのには苦労しましたが、日々何とか体制が整ってきました。
その中で彼は、塾で連絡先を交換した候補者たちと、準備状況をお互いに相談するMLを作りました。彼自身選挙準備に追われていたので、他の選挙区での様子を具体的に把握できたわけではないのですが、どの選挙区でも、党本部からのケアはほぼ皆無という状況でした。
今まで一度も選挙活動をしたことがない若者から、最低で供託金三百万円とポスター代百万円併せて四百万円、そのほか事務所代を含めれば千万円近くのお金を自腹で払い込ませ、その後はほったらかし。
少なからぬ人が小選挙区では勝負にもならず落選し、供託金も没収となるのは、目に見えていました。政治家は使い捨てとはいえ、随分なものだと、彼は思っていました。
「中田宏=比例1位」の困惑
彼自身の選挙の勝算は、候補者が多くいる関西、関東と異なり、新潟5区の属する北信越ブロックでは、解散の時点では富山に1人、長野に2人、新潟に彼を含めて2人の合計5人の候補者がいるだけ。しかし、世論調査などの維新への支持率から、2~3人の当選が予想され、十分勝機が見込めるというものでした。
ところが彼のこの計算は、同年11月30日、前横浜市長中田宏氏を、北信越ブロックの維新比例単独1位で擁立する事を発表したことで早くも崩れました。
「小選挙区の候補者全員を比例同列1位で処遇する」という坂井氏の言が、何の説明もなく反故にされたことを知った彼は、声をかけてくれた松浪氏を始め、知遇のあった複数の維新の国会議員に「あまりにひどいではないか。中田宏氏をどうしても比例1位で処遇するなら、せめて中田氏も富山1区など小選挙区で立候補すべきだ」と抗議しましたが、聞き入れられることはありませんでした。
12月4日の公示をまであと3日と迫った12月1日土曜日、長岡駅前に橋下代表代行を迎えての演説会が決まりました。それ自体は大変嬉しく感謝の至りでしたがしかし、本部から示された演説会の条件は、彼は信じられないものでした。
彼の名前をひと言も言わなかった橋下氏
12月4日の公示をまであと3日と迫った12月1日土曜日、長岡駅前に橋下代表代行を迎えての演説会が決まりました。それ自体は大変嬉しく感謝の至りでしたがしかし、本部から示された演説会の条件は、彼は信じられないものでした。
演説会は11時00分開始で、橋下代表代行の演説は11時45分からだというのです。応援弁士が、自分の演説開始時間を指定するのは当然ですが、演説会自体は候補者の陣営が開催するもので、応援弁士側が演説会全体の開始時間を指定するは、自民党時代からも一度もなかったからです。
これが自民党であれば地元の県議・市議に応援演説をしてもらえばその場を持たせることは容易だろうと思いますが、当時の日本維新の会は、当然のことながら新潟には一人も地方議員はいませんでした。
彼の後援会組織も十分ではなく、ボランティアの応援団はいましたが、橋下氏見たさで多人数の参集が見込まれる中で「前座」で演説ができる度胸のある、経験豊富な政治家はいません。やむを得ず彼は、45分間を一人の長演説で繋ぎ、橋下代表代行を迎える事にしました。
心配された彼の演説も何とか終わり、橋下氏が現れて演説をしたとき、彼はさらに驚きました。橋下氏は彼の名前をただの一言も言うことなく、維新の宣伝だけに徹底して演説を終えたのです。
納得して寄付?
それだけではありません。橋下氏は演説の中で、誇らしげに
「相手は350億円もかけて選挙をやっているのに、僕ら日本維新の会はお金をかけずにやっているんです。しかもね、立候補者、皆自費で選挙をやっているんです。これが本当の政治家ですよ。
見て下さい、民主党のあの最後のドタバタ劇。民主党は候補者に三百万円渡しているんです。これ全部皆さんの税金。三百万円だけもらって、逃げちゃった候補者もいたらしいけれども。後で返したらしいですが。日本維新の会は、金を渡すどころか、立候補者から百万円頂いているんです!」
とドヤ顔で話したのです。候補者から百万円を徴収していることが週刊誌で報道されて問題視された故に、「候補者も納得して最初から寄付して貰った」という事にしたのでしょうが、その余りの実態との乖離に、彼は眩暈を覚えました(ただしこの部分は動画の記録が残っていなかったので、記憶と千葉における演説を参考に再現しました)。
彼を門前払いにした橋下氏
自民党で応援弁士が応援している立候補者について一言も触れないなどということは一度もありませんでしたし、このような明らさまな欺瞞もありませんでした。もちろん彼は一候補者に過ぎませんから、演説の内容に口を出す立場にはありません。彼は無事演説会を終えた安堵を感じながらも、失望を禁じえませんでした。
そのあと党本部から「地元の名店を予約するように」と言われていたので、彼は名物である枌そばの名店「小嶋屋」を予約しました。
特段会食は設定されていませんでしたが、自民党の応援弁士の方は、大臣クラスでも、時間があれば候補者・後援会スタッフと食事をするなり少なくとも挨拶ぐらいはかわすなりするのが常だったので、彼は落選中を含めもう7年間も支えてくれている、地元の名士でもある後援会長と共に、小嶋屋に向かいました。
小嶋屋に入ると橋下氏はすでに個室で食事をしているとの事で、その部屋に後援会長とともに挨拶に行くと、入り口は文字通り黒服のSPが控え、「現在休憩中だから誰とも会えない」とのことで彼と後援会長は、話をするどころか顔を見る事すらない門前払いといっていい対応を受けました。
候補者もスタッフもただの「駒」
勿論全国の候補者を応援して回っていた橋下氏が多忙を極めていたのは分かります。又当時の日本維新の会は、橋下氏の人気と知名度に大きく依存しており、氏からは全ての候補者が、自分と党を利用している存在にしか見えなかったのだろうとも思います。
しかし、いかに橋下氏でも、一人で選挙はできません。政党として国政選挙を戦うには多くの候補者やスタッフが必要で、だからこそ当時の維新は、碌に選挙をしたこともない若者達に自腹で千万円近くを負担させて、172名もの候補者を擁立していたのです。その候補者やスタッフをまるでごみのように扱うという事は、結局のところその地域もごみのように扱うという事でしょう。
彼は、その場で後援会長と共に席を取り、全く味のしないそばを、胸に湧き上がる苦い思いとともに飲み下しました。
次点で落選
公示前からそんな事があったとはいえ、その後彼の選挙戦は、自民党時代からの支持者・ボランティアと、数は少ないながら新たに得たスタッフに支えられて、それ相応に順調に進みました。12月16日の投開票日昼頃には、彼の陣営のもとには「恐らく比例復活で当選」との報がマスコミから伝えられました。
彼は特段、飾りもない選挙事務所で吉報を待とうと考えていましたが、マスコミから「万歳をするのに必要」と言われて即席のひな壇を作り、万歳撮影の際の位置まで、マスコミ各社と打ち合わせました。当然、マスコミ予想の通り当選できるものだと考えていました。
午後8時を迎え、彼と支持者は期待を持ち開票速報を見ていました。しかし、北信越ブロックの維新の獲得議席は3議席。彼は惜敗率44.38%で維新4位、次点で落選という残念な物でした。
「え? そんなこと言ったの?」
選挙から1ヵ月ほどたった12月末、「選挙の総括」という事で、落選した候補者が大阪の維新本部に呼ばれました。実質的な代表でありながら、太陽の党との合流で代表代行となっていた橋下氏が総括を述べた後、質疑となり、落選した候補者の多くが、手を挙げて質問し、意見を述べました。維新の選挙サポートのなさを指摘するものも多かったのですが、そういった意見でも全体としてのトーンは今後に生かし、さらに前向きに努力するというものでした。
そんな中、彼はどうしても釈然としない思いで、手を上げ、発言の機会を得ました。
彼は目の前の橋下氏を見据えて尋ねました。
「このような機会を与えて頂き、大変ありがとうございます。今ほど、多くの皆様らか非常に有益な指摘や、前向きな決意が表明されました。彼も今回は落選してしまいましたが、挫けることなく頑張りたいと思います。ただそれに当たって、一つ申し上げたいことがあります。彼は面接のとき、『小選挙区候補者は同列一位ですか』と面接官に聞き、『同列一位だ』と明言されました。彼だけではありません。何人かに聞いたところ、複数の候補者が、同じように確認し、同じ回答を得ています。ところが、蓋を開けたら、全てのブロックで、単独比例1位、2位の候補が擁立されました。彼は、維新は、閉塞した自民党政治を打破し、『合理的な正しい政治』を実現する政党だと思っています。その政党が、内部のことであってもこういう不合理な事をしてはいけないと思います。なぜこのようなことになったのかその理由を伺うとともに、次回以降は、比例順位についての党の方針も、きちんと説明していただきたいと思います」
橋下氏は、彼の質問が終わるか終わらないかのうちに、いつもの大きな早口で答えました。
「え? そんな事を言ったの? それ誰? 分からない? ああ、でもそういったなら、それは僕のミスです。すみません。しかし候補者の擁立は、高度な政治判断で党執行部が行います。皆さんは自分の力で選挙をするんじゃない、党の力で選挙をするんだから、それは当然です。ただ、今回の事は説明が悪かった。次回からそれは改めます」
彼は、太陽の党との合流を聞いた時から、心の中に澱のように積み重なっていた橋下氏と日本維新の党への失望と違和感が、はっきりと目に見える形を成していくのを感じながら、
「分かりました。ご回答ありがとうございます」と答えて質問を終えました。
2013年、野党第一党をうかがう状況で
2012年の衆議院選挙の敗北は彼にとって苦いものでしたが、彼の政治意欲は失われていませんでした。日本維新の会代表・橋下徹氏をはじめとする執行部の対応には憤りもありましたが、落選後も連絡を取り合っていた同期の仲間と愚痴を言い合うことで自分を納得させるばかりでした。
彼は、今後の立候補希望に対する党からのアンケートに、次期参議院新潟県選挙区への立候補を希望すると回答しました。
衆議院選挙で彼は落選しましたが、民主党が230議席から57議席と激減する中で、維新はこれに迫る54議席を獲得し、野党第一党をうかがう状況にありました。世論調査によっては多少の違いはありましたが、2013年1月のNHKの世論調査では政党支持率が民主党7.6%に対して維新6.5%と迫っており(政治意識月例調査-2013年/NHK放送文化研究所)、当時定数2であった新潟県選挙区では、十分勝機があると考えたからです。
この年の新潟は大雪で、2013年の年明けから彼は選挙のために、休んでいた弁護士、医師の仕事に追われていました。国会では誕生したばかりの安倍晋三首相が、3月16日、僅か3ヵ月前の選挙で掲げた「TPP絶対反対!」を翻し、交渉参加を表明していました。
そんな中で、維新の会への入党の声をかけてもらい、その後も親しくしていた松浪健太衆議院議員(当時・現大阪府議)から、あまり嬉しくない知らせを受けました。
「新潟は、今回凄い候補──我々の中では『特A』っていうんだけど──そういう候補が手を挙げているんだ。僕は米山君を推すけど、分からないよ」
新潟に維新の会の候補となりそうな人物は見当たらず、特に問題なく自分が選ばれると思っていた彼は、「そんな奴がいるんだ」と驚きを禁じえませんでした。一方で「特A」の人物が誰なのか見当もつかず、最終的には自分が選ばれるだろうという思いもあり、比較的楽観的に構えていました。
「特A」候補者と名指しされた人物の正体
3月半ばになって「参議院選挙の候補者として認められた」との連絡がはいり、3月30日の第1回の党大会において、発表されることが伝えられました。
2013年3月30日の党大会は、上り坂の党の熱気にあふれていました。彼も参議院選挙への勝利に向け希望に胸を膨らませていました。この時、候補者紹介で壇上に並んだ際、彼の隣になったのは、広島選挙区から立候補する灰岡加奈候補(現広島県議・自民党)で、同じく2012年の衆議院選挙で敗れていました。
「いやぁ、衆議院選挙は参りましたよ。もうああやって、衆議院で比例上位に候補を突っ込まれるのは沢山です。予想ができる2人区の参議院がいいと思って、きたんですよ」
「本当に。私だってもう、1人区の選挙はこりごりです。今度は2人区で!」という会話を交わしたことを今も記憶しています。(参考記事
「維新、参院選で33人公認 選挙区11人・比例代表22人」
日本経済新聞)
壇を降りた懇親の場で、松浪氏と目が合った彼はお礼を言いました。
「御無沙汰しております。おかげさまで、無事候補となることができました」
松浪議員は笑顔で答えました。
「ああ、よかったな。『特A』の人、なかなかやったけど、米山君頑張ってるって、推しとったのを、執行部が聞いてくれたんやな。ところで『特A』の人、中学校の同級生なんやって? 齊藤君っていうんやけど」
彼は記憶をたどり、この「齊藤」氏が、当時Pezzy Computingを創設し、国産スーパーコンピューターベンチャーの旗手となっていた齊藤元章氏であること気が付きました。
齊藤氏と彼は長岡市と新潟市新潟大学附属中学校の同じ学年でした。彼は長岡市のほうで、齊藤氏は新潟市でしたが、共通の友人が多く知己がありました。
「ああ、あの齊藤君なら、知っています。ご選任頂き本当にありがとうございます。先生のお力添えのおかげです」
彼は当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった齊藤氏を抑えて、彼を選んでくれたことに安堵と感謝を感じながら、その場を立ち去りました。
ちなみに齊藤氏は、残念なことに2017年12月、詐欺容疑で逮捕され、その後東京地裁で実刑判決を言い渡されています。
橋下氏の「慰安婦発言」の激震
3月30日の党大会から新潟に帰った彼は、興奮冷めやらぬ思いで、すぐに選挙準備に取り掛かりました。彼は2005年の郵政解散選挙に自民党から立候補して以来ずっと新潟5区で選挙をしていました。しかし、参議院の全県選挙区では、県庁所在地であり、人口の3分の1が集中する大票田の新潟市での得票が、当落の命運をわけます。
彼は、4月に入ると新潟市の事務所探しや、スタッフを募集に奔走し、ゴールデンウイークには、新潟市内の行楽スポットで「日本維新の会」と書かれたタスキをかけて活動を始めました。
行きかう人々の声は、「お、維新か。いいね。頑張れよ!」と好意的なものが多く、
「このままいけば、2位に滑り込んで勝てるんじゃないか……」
彼はそんな手ごたえを感じながら、5月の連休を終えました。
しかし、彼の期待感は、長くは続きませんでした。
5月13日、当時、大阪市長だった橋下氏が、記者団からの「村山談話についてどう思うか」という質問に対して「慰安婦制度は必要だった」と発言し大炎上したのです。
また、これと同時に、5月初めに沖縄の米軍普天間飛行場を訪問した際、アメリカの司令官に対して「隊員の風俗業の活用」をアドバイスしたことも、ニュースで大々的に報じられました。
「馬鹿なことを言いやがって……」
彼は呆然とするばかりでした。
それでも少しでも好意的な報道をしているメディアがあることを祈るような気持ちでテレビのチャンネルを変えていきましたが、どの番組でも、橋下氏への非難一色でした。
彼はせめてもの弁明として、自身のブログ(
「米山隆一の10年先のために」
)に
「従軍慰安婦問題」
(我が党党首と言えど、「風俗発言」「慰安婦発言」には、私は反対します)や
“You are the most beautiful in the world.”
などの記事を書き、自分は橋下氏と同意見ではないと表明。なんとか逆風を克服しようとしました。
しかし、この橋下氏の「従軍慰安婦発言」を境に、街頭の空気は一変しました。
【共同声明】橋下発言に強く抗議・世界各国のNGO68団体が緊急声明発表
国際人権NGO、アジアを中心とする世界各国のNGO・68団体は、「従軍慰安婦制度は必要だった」などとする、橋下徹大阪市長・維新の会共同代表の発言に対し、抗議の緊急共同声明を発表いたしました。この共同声明を呼びかけたNGOヒューマンライツ・ナウと、アムネスティ・インターナショナル、反差別国際運動(IMADR)の三団体が5月23日に共同会見を開催し、翌日には日本政府、大阪市長宛てに郵送いたしました。
共同声明では、橋下氏の発言撤回と被害者への真摯な謝罪、日本政府に対し、橋下氏の一連の発言を公式に非難し、「従軍慰安婦」制度が強制的性格を有し、重大な人権侵害であることについて、留保なしに明確に再確認することを求めています。
2013年5月23日
NGO共同声明
市民社会は、橋下大阪市長による「従軍慰安婦」に関する発言に対し、強く抗議する。
- 5月13日、大阪市長であり、50人以上の国会議員を擁する日本維新の会の共同代表である橋下徹氏は、第二次世界大戦中のいわゆる「従軍慰安婦」制度が軍の規律を維持し、兵士に休息を提供するために必要だったと発言した。
橋下氏は「あれだけ銃弾の雨嵐のごとく飛び交う中で,命かけてそこを走っていくときに,そりゃ精神的に高ぶっている集団,やっぱりどこかで休息じゃないけども,そういうことをさせてあげようと思ったら,慰安婦制度ってのは必要だということは誰だってわかる」と記者団に語った。
同時に彼は、当時の日本政府が慰安婦を強制連行した証拠はないと言及した。
私たち、下記の国際NGO、アジア地域および他の地域のNGO68団体は、重大な女性の人権侵害を正当化しようとするこの言語道断の発言に対し、強く抗議する。
- 「従軍慰安婦」は、第二次世界大戦中、日本軍がアジア各地の「慰安所」その他の場所で、旧日本軍による広範かつ組織的な性的な暴力を受けてきた被害者である。韓国、中国、フィリピン、インドネシア、オランダ、その他の国と地域の女性達が犠牲となった。
被害者たちは拘束状態に置かれ、旧日本兵により性交渉を強要され、性的に搾取された。女性達は、殴る、身体を刺す・焼く等、容赦ない暴力に晒され、特に抵抗した場合は残虐であった。
監禁時の取り扱いが凄惨であったために多くの女性達が命を奪われた。生存している元被害者たちも、人間の尊厳を踏みにじる取扱いを受けた結果、長年にわたり心身に極めて深刻な傷を負い続けてきたものである。
国連「女性に対する暴力」特別報告者ラディカ・クマラスワミ氏の調査報告その他の国連調査報告に正当に認定されている通り、 「従軍慰安婦」制度の実態は、「性奴隷制」にほかならない。
国際刑事裁判所に関するローマ規程に明記されている通り、戦時下におけるレイプ、性奴隷制、強制買春は、「人道に対する罪」「戦争犯罪」を構成する最も深刻な国際犯罪のひとつである。
「従軍慰安婦」制度が、国際法に違反する重大な人権侵害であり、いかなる意味においても正当化・合理化できないことは明白である。
橋下氏の発言は、「慰安婦」とされた被害女性たちの心情をさらに深く傷つけている。
私たちは、橋下氏に対し、速やかに発言を撤回し、被害者に公式に謝罪するよう求める。
- さらに懸念されるのは、慰安婦制度の強制的性格を否定する橋下氏の発言は、2007 年の第一次安倍晋三内閣の「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とする閣議決定に端を発したものであり、 橋下氏一人の問題にとどまらないことである。
「慰安婦」制度に関する調査結果に基づいて河野官房長官(当時)が1993 年 8 月 4日に公表した談話(河野談話)は「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」と公式に認めている。
また、日本の裁判例の中には「慰安婦」の強制的性格を明確に認めた判決がいくつもある。
さらに、多くの生存する被害者たちは、拉致やその他の強制的手段、例えば公式な徴用や兵士による身体拘束、暴力・脅迫などによって性的奴隷とさせられたことを「女性国際戦犯法廷」等の場で公然と証言している。慰安婦制度の強制的性格を否定することは到底認められない。
人権侵害の重大性にもかかわらず、日本政府は被害者に対する直接的な国家補償、真摯な謝罪、被害者への十分な救済措置を怠り、安倍政権下では、2007年の閣議決定を維持・公言して、慰安婦制度の強制性を否定しようとする動きもある。
こうした日本の態度は自由権規約委員会、女性差別撤廃委員会、拷問禁止委員会、ならびに国連人権理事会普遍的審査等の国連人権機関から繰り返し非難されている。
長年にわたり救済を受けてこなかった「慰安婦制度」の被害者に対して、真実を公式に明らかにし、人権侵害の事実を正面から認めたうえで公的な謝罪をすることはとりわけ求められている。
私たちは、日本政府に対し、橋下氏の一連の発言を公式に非難し、「従軍慰安婦」制度が強制的性格を有し、重大な人権侵害であることについて、留保なしに明確に再確認するよう求める。
List of NGOs
- Amnesty International
- Human Rights Now(HRN)
- The International Movement against All Forms of Discrimination and Racism(IMADR)
- Asian Human Rights Commission(AHRC)
- Asian Legal Resource Centre(ALRC)
- Asia Pacific Alliance for Sexual and Reproductive Health and Rights(APA)
- Asian Center for the Progress of Peoples(ACPP)
- Asia-Pacific Mission for Migrants(APMM)
- MIGRANTE International
- Coalition of African Lesbians
- MINBYUN-Lawyers for a Democratic Society( South Korea)
- People’s Solidarity for Participatory Democracy(PSPD)(South Korea)
- ‘SARANGBANG Group for Human Rights'(South Korea)
- Korean House for International Solidarity(South Korea)
- Buddhism Human Rights'(South Korea)
- ‘Palestine Peace and Solidarity’ in South Korea(South Korea)
- Human Rights Working Group(Indonesia), Indonesia NGO Coalition For International Human Rights Advocacy
- IMPARSIAL, the Indonesian Human Rights Monitor(Indonesia)
- Singapore Unity Project(Singapore)
- Singapore Anti Death Penalty Campaign(SADPC)(Singapore)
- Project X(Singapore)
- Function 8(Singapore)
- Cambodian League for the Promotion & Defense of Human Rights(LICADHO)(Cambodia)
- IPPF(International Planned Parenthood Federation) East and Southeast Asia and Oceania Region(Malaysia)
- Lila Pilipina(Lila Pilipina is the organization of former Filipino Comfort Women)(Philippines)
- The National Task Force on Urban Conscientization, a mission partner of the Association of Major Religious Superiors in the Philippines(Philippines)
- KARAPATAN(Karapatan Alliance for the Advancement of People’s Rights – Philippines)
- GABRIELA(Philippines)
- BAN THE BASES(Philippines)
- BAYAN( Philippines)
- MIGRANTE BC(Philippines)
- MIGRANTE Japan(Japan)
- MIGRANTE Australia(Australia)
- GABRIELA USA(USA)
- All India Network of Individuals and NGOs working with N/SHRIs [AiNNI](India)
- Human Rights Defenders Alert [ HRDA](India)
- People’s Watch(India)
- MASUM(India)
- PACTI( India)
- National Alliance of women human right defenders, Nepal(Nepal)
- WOREC(Nepal)
- Youth Action Nepal(YOAC)(Nepal)
- Hong Kong Campaign for the Advancement if Human Rights and Peace in the Philippines(HKCAHRPP)(Hong Kong)
- Interfaith Cooperation Forum(ICF)(Hong Kong)
- Association of Concerned Filipinos(ACFIL)(Hong Kong)
- Asian Migrants Coordinating Body(AMCB)(Hong Kong)
- Abra Migrant Workers Welfare Association(AMWWA)(Hong Kong)
- CORALL(Hong Kong)
- Abra Tinguian Ilocano Society(ATIS)(Hong Kong)
- Cuyapo Association(Hong Kong)
- Friends of Bethune House(FBH)(Hong Kong)
- Filipino Women Association in HK(FILWOM)(Hong Kong)
- Filipino Migrant Association(FMA)(Hong Kong)
- Filipino Migrant Workers Union(FMWU)(Hong Kong)
- GABREILA Hong Kong(Hong Kong)
- LIkha Cultural Group(Hong Kong)
- Mission Volunteers(MOVERS)(Hong Kong)
- Pangasinan Organization for Welfare, Empowerment and Rights(Pangasinan Power)(Hong Kong)
- Promotion of Church for People’s Response(Hong Kong)
- United Pangasinan Hong Kong(Hong Kong)
- United Filipinos in Hong Kong(UNIFIL-HK)(Hong Kong)
- Filipino Friends – Hong Kong(Hong Kong)
- Miguel Agustín Pro Juárez Human Rights Center(Mexico)
- Action Canada for Population and Development(ACPD)(Canada)
- The Canada-Philippines Solidarity for Human Rights(CPSHR)(Canada)
- Centro di documentazione ‘Semi sotto la neve’ Pisa(Italy)
- Human Rights Ambassador for Salem-News.com(Kuwait)
- Human Rights First Society, Saudi Arabia(HRFS)(Saudi Arabia)
「自分は正しい」と強弁する橋下氏
維新のビラを渡しても、演説をしても、
「維新? ありゃダメだね」
そういって立ち去ってしまう人が極端に増えました。
「せめて発言を謝罪・撤回してくれれば……」と、彼は毎日祈るような気持ちでニュースを眺めていました。橋下氏は、風俗発言は5月25日に撤回したものの、従軍慰安婦問題についての発言はかたくなに拒み、ただひたすら不合理で上から目線の自己弁護とマスコミ攻撃を続けるだけでした。多くの候補者、党員の思いや運命がかかっているにもかかわらず、橋下氏にとって大事だったのは、無理やり自らの暴言につじつまを合わせ、自分は正しいと強弁する事だけだったのです。
「この人は徹頭徹尾こういう人なんだ……」
彼は、衆議院選挙後の総括で感じた苦い感情が再び胸に上ってくることを感じました。
それでももう、犀は投げられています。
彼は、橋下氏の不合理としか言えない自己弁護に終始する姿に強い幻滅を覚えながら、しかし、兎も角も勝利を目指して突っ走りました。
5月14日に新潟市の県庁前に自費で大きな「日本維新の会」の看板を掲げ、18日に新潟、25日に長岡市で事務所開きをし、活動を継続したのです。
参議院選挙の前哨戦として位置づけられていた6月23日投開票の東京都議会選挙。
橋下氏の従軍慰安婦発言、風俗発言の影響が大きく、日本維新の会は大量34人を擁立しながら、当選わずか2人の結果に終わりました。このとき、今年7月の次期参議院選挙で維新から東京選挙区で立候補を予定している海老沢由紀氏も落選しました。
落選後、彼は落胆する海老沢氏に電話して、「次は私ですね。頑張っていますが、まあ状況は変わらないでしょう。橋下氏には、お互いとことん振り回されますよね。でもお互い諦めずに頑張りましょう」と、慰めたことを記憶しています。
10万票は超えたものの
新潟県は平均的な大きさの県の三つくらいを集めた広大さで、参議院選挙の投開票日までできる活動は限られていました。
彼は各地域の人口が多い中核都市に狙いを定め、自転車を積んだワゴンで赴き、ボランティアの若者たちと自転車で1日中回る「地上戦」を徹底しました。
また先に述べた、齊藤氏から紹介された評論家の三橋貴明氏と公開討論会をしたり、東国原英夫氏、アントニオ猪木氏ら知名度の高い、話題性のある応援弁士を依頼して街頭演説を行い、その動画をネット配信したりもしました。
維新本部からは、阿部賞久府議(当時)、岩谷良平府議(当時・現衆議院議員)などが応援に来てくれました。猫の手も借りたい状況で、一人で演説ができる応援議員は率直に有難く、そこは流石に維新だなと思いました。
そして、参議院選挙の投開票、7月21日、彼の得票は10万7591票、1位の自民党候補の45万6542票には遠く及ばず、2位の民主党候補の20万4834票からも大きく引き離されました。しかし、巨大な組織力を持つ自民、民主両党に対して限界を痛感する一方で、個人で数か月間選挙戦を戦っただけの維新候補が10万票を超える得票を出来たことには、可能性も感じました。
中田宏氏の大上段な「演説」
選挙後の8月10日、彼は大阪の本部に呼ばれ、次回の意向を聞かれました。この時点でも彼は政治への意欲を失っておらず、再度立候補の意思があることを執行部に伝えました。真夏の炎天下、胸に去来する様々な思いを込めて彼は、「土の中 7年待つや 蝉時雨」という句をブログにアップしました。
参議院選挙から2ヵ月ほどたった、9月に意欲が認められたのでしょう、維新の北信越ブロック会議に召集されました。
2012年の衆議院選挙比例1位で当選した中田宏氏が北信越ブロックの長としてマイクを
握り、大上段に振りかぶった「政治とは何ぞや」の様な話をされました。
北信越地域とほとんど何のゆかりもなく、自身で何一つ選挙活動を行っていない人の話に、耳を傾ける気にはなれませんでした。
それでも彼は
(1) 橋下氏の「従軍慰安婦発言」が、それまでの上げ潮ムードを一気に冷やした。執行部は自らの発言が、党全体に大きな影響を与える事を自覚してほしい。
(2) ぜひ新潟の組織化について、ある程度のリソースを与えてほしい。それがあれば、3年間で、何らかの結果を出して見せるし、結果が出なかったら、首を切っていただいて構わない。
(3) 日本維新の会は、本来、「政治を変えよう」という熱い志を持った人たちの集まりだ。落選してなお志を失わない人達はたくさんいて、連絡を取っている。その人たち勉強の場・活動の場として、党の公的な機関を創らせてほしい。と発言し、会議を終えました。
堺市長選と「大阪都構想」
それからほどなくして、彼の下に、維新が一丁目一番地の政策に掲げる大阪都構想で、大阪市に加えて、政令指定都市の堺市を含めるか否かで注目となっていた堺市長選挙への応援要請が来ました。
議員でもなく、何の役職もない一党員に過ぎない彼が、新潟から大阪府堺市まで行くのには、釈然としないものもありましたが、彼自身、維新の府議らから参議院選挙で応援して貰ったこともあり、「これが維新」と思って参加しました。
維新の応援は独特で、演説を行うのはツートップの橋下氏、松井一郎氏のみで、全国各地から応援に来た国会議員や地方議員は、演説をすることなく、彼らやボランティアと一緒にメガホンをもって街を歩きました。
「大阪は一つ! 都構想の実現を!」
彼も、緑のシャツに緑のメガホンを持って叫びながら、共に回る多くのボランティアの人たちの一心不乱さに、彼は維新の大阪での強さの源泉を見る思いでした。
その一方で、「都構想」の中身がなんであるかを具体的に話す人はいませんでした。
時折合流する橋下氏の演説も、お決まりの二重行政批判のほかは、「東京23区はプレスティージ。大阪に港区ができたらみんなが誇らしくなる!」と言う内容のない抽象論に終始。何より、堺市長選であるのに、堺市や候補者である西林克敏氏のことも殆ど一切話さず、ただただ「都構想」のことを話すだけでした。
彼は、
「堺市長選なのに、これで大丈夫だろうか……候補者、かわいそうじゃないか? それにしても大阪都構想というのはこの程度の主張なのか、みんななぜここまで一生懸命になれるのだろう……」という疑問を禁じえませんでした。
このとき同じチームで誰よりも賢明に叫んでいたのが、森夏枝愛媛3区支部長(当時・前衆議院議員)でした。
こうして9月29日に投開票を迎えた堺市長選挙は、大阪都構想に反対の竹山修身氏が198,431票を獲得して、維新の西林克敏氏の140,569票を圧倒し、幕を閉じました。
振り返るとすでにこの時、大阪都構想には早くも、暗雲が立ち込めていたのです。
橋下氏の奇策
大阪・堺市長選挙が終わってから、当面、国政選挙は先だろうという事で、彼は少々のんびりとした気持ちで、東京と地元新潟を行き来する生活を送っていました。2013年のこの時、初めて小泉郵政解散選挙に立候補して落選した2005年から既に8年が経過していました。浪々の身の彼は、
「桃栗三年柿八年 米山十年 頑張ります」という句をブログに
書き記しています
。
一方で、大阪市の橋下徹市長(当時)が率いる「大阪維新の会」の看板政策である大阪都構想は、
前回の連載
で書いたように、前哨戦と位置づけられた堺市長選で惨敗したこともあって、混迷を極めていました。
当時の大阪都構想は大都市地域特別区設置法に基づいて、24区からなる、政令指定都市の大阪市を廃止して、5つの特別区に分割・再編するもので、要するに大阪市の廃止の是非を住民投票で問うものでした。
この区割り案を定める法定協議会は、大阪府知事、大阪市長、府議会9人、市議会9人の20人で構成されており、このうち維新は、松井一郎大阪府知事(当時)、橋下大阪市長、府議5人、市議3人の10人を占めていました。
この中で自民党や民主党系、共産党がはっきりと反対。維新は20人中10人を占めていましたが、採決では、維新から出している法定協議会の会長、浅田均氏(現参議院議員)が採決に加わらないために、公明党の協力を得なければ、可決できない状況にありました。
橋下氏はじめ維新執行部は、恐らく最終的には公明党の賛成を得られると考えていたのだと思いますが、2014年1月31日の法定協議会でその思惑は外れ、公明党の反対で区割り法案は否決されてしまいました。これによって橋下氏らが目指していた2015年の住民投票のスケジュールの達成が極めて困難な状況に陥ったのです。
この事態を受けて橋下氏は、「大阪都構想に反対なら僕の首を取ればいい」と嘯いて大阪市長を辞任して再度大阪市長選挙に打って出るという
奇策に打って出ました
。
このとき彼は、当時国会議員だった松浪氏と大阪都構想の情勢を話しましたが、松浪氏が「橋下はやるよ!」と上気した声で語っていたのを覚えています。
大阪の維新のメンバーは皆、悲願達成に向けた橋下氏の「覚悟」に感動していました。
同年3月23日に投開票となった大阪市長選挙は、他の主要政党が維新の戦略には乗らないとして、候補者を出さない中で87.51%の得票率で橋下氏の圧勝に終わりました。
しかし、当然のことながら出直し市長選挙をしたところで市議会・府議会の構成が変わるわけではなく、新潟にいる彼には「多額の税金を用いて自分の人気を誇示する為のパフォーマンス」以上の意味は見出せませんでした。
その後も、大阪都構想の状況が変わることはなく、法定協議会は相変わらず混迷しました。この状況に業を煮やした維新は、6月になると事態を打開するべく「法定協議会の委員を入れ替える」という更に強引な奇策に打って出たのです。
6月17日、7月3日の両日、維新は、「法定協議会の事務は協定書の作成を行うことであり、協定書の作成を行わないのは義務違反で異常だから正常化する!」と言う無茶苦茶な理屈を掲げます(通常の法解釈なら、協定書の作成を行う団体は、協定書の作成を行わない事もできます)。
維新が過半数を占めている大阪府議会の議院運営委員会で自民党、民主党、公明党の委員を差し替え、法定協議会の過半数を確保し、「5区・分離案」を強引に採決し、7月23日に協定書を決定したのです。
税金を使った無意味なパフォーマンス選挙、無理な理屈付けによる少数会派の締め出しと強行採決……。自分も所属してはいるものの、このままの体質で維新が国会で多数派になったらどうなるのだろうと、不安を感じずにはおれませんでした。
時を同じくして、国政政党の日本維新の会では、みんなの党から分裂した「結いの党」との合流協議が進行していました。その過程で、石原慎太郎氏のグループが反発。日本維新の会は分裂し、解党した後にまた日本維新の会を立ち上げるという、わかりにくい経過をたどりながら、9月21日、新しい日本維新の会と結いの党が合流して「維新の党」が結成され、橋下徹氏と江田憲司氏が共同代表に就任しました。
彼は、飲み会等で隣席すると、ひたすら国防だの国体だのを滔々と述べ立てる石原グループの方々が率直に言って苦手で、リベラルな改革志向の結いの党と合流できたことはむしろありがたいことだと感じていました。
維新を離れた議員が受けた仕打ち
これに先立つ2014年4月に、安倍政権は5%から8%への消費税率引き上げを行っており、2015年10月には更に10%へ増税する方針でした。しかし4月の消費増税の影響が長引き、秋になるとアベノミクスに陰りが出はじめました。
すると2014年11月、安倍首相は、突如、消費増税の信を問うとして衆議院を解散し、「アベノミクス選挙」に打って出たのです。
当時新潟県の「維新」は事実上彼一人でした。地方レベルの旧民主党関係者との話し合いがもたれ、一旦、新潟5区で彼が出馬するという合意がなされました。しかし、その後、突然森ゆうこ氏(現・立憲民主党参議院議員)が割って入り、彼の出馬は雲散霧消しました。
そのような経緯で2014年の選挙は、彼は立候補せず傍観することになりましたが、強く印象に残ったのが、維新創設メンバーの一人で国会議員団政調会長を務めた桜内文城氏の愛媛4区の選挙でした。
彼は、国政政党である日本維新の会の創設メンバーで、当時、国会議員団政調会長を務めていた桜内氏とは、立ち上げ時の麻布のバーでの会合の頃から親しくしていました。結いの党との合流に反対だった桜内氏は、維新を離れ石原氏の「次世代の党」に加わっていましたが、彼は、桜内氏が「維新」と「次世代」の統一候補となれば、チャンスがあると期待していました。
ところがその桜内氏が出馬する愛媛4区に、堺市長選挙でも一緒に活動した、森夏枝氏(元衆議院議員)が、愛媛3区からの鞍替えで出馬したのです。
鹿児島県・鹿屋体育大学卒業という経歴の森氏は、率直に言って政治・経済政策や選挙実務の知識にも乏しく、同じ愛媛県の先輩議員である桜井氏から政治のイロハを教えてもらっていました。まさかその森氏が、自らの生まれ故郷である愛媛4区の選挙区を捨てて、血で血を洗う桜井氏の刺客にたつとは思いもしませんでした
その頃の報道
によると、選挙中、愛媛4区に応援に入った橋下氏は、桜井氏のことをこう罵倒したといいます。
「日本維新の会から次世代の党に移った人は、私のところに一言の挨拶もなかった。桜内さんは党本部にかまぼこ3本持ってきたらしい。私と松井知事と事務局に1本ずつということで。彼らが次世代の党を作る時、ずらりと並んで『国民に道徳教育が必要だ。礼節をわきまえた国民を育てないといけない』と言っていた。いやその前にまず、自分たちが離党する時の挨拶だろうと思った。ということで、これから(桜井氏の)事務所まで行こうと思う」
すると隣に立った森氏は涙で声を詰まらせながら、こう演説したと報じられています。
「私はこの愛媛4区には親戚もいない。知り合いも少ない。応援してくれる企業や団体もない。しかし闘わなければならない。どうしても許せないことがあったからだ。いまは次世代の党に移った候補にかつて、子育ての世代の声を聞かせてくれと言われた。なので、友達が子どもの学費の心配をしていること、何人も子どもを産むと大学に行かせられないと懸念していることを伝えた。そうしたらその候補は、『バカな親がバカな大学に行くことを心配しなくていいんだ』と言い放った。これが許せなかった」
(上記2つの発言は
『無慈悲!選挙後半戦は「仁義なき戦い」に』東洋経済オンライン
より)
桜内氏は、この
連載2回目
で触れた橋下氏の「従軍慰安婦発言」で袋叩きになっていた時に、必死で理論武装をして擁護し、政策面でも維新を引っ張っていた中心人物でした。
彼はこの報道を見て、橋下氏の、自分の意に沿わない行動をした者への偏執的ともいえる攻撃に、驚きしかありませんでした。
開票の結果、愛媛4区は、自民党の山本公一氏(元環境相)が6万6千票あまりの得票で圧勝しましたが、桜井氏は約4万7千票、森氏が約2万票で単純に2人を足せばわずかですが、山本氏の票を上回っていました。橋下氏にすれば、森氏を刺客に立てる事で、首尾よく桜井氏を落選させることに成功したという事になるのでしょう。
なお、後日桜井氏と会ったとき、彼はどうしても気になっていたこの発言の真偽を尋ねましたが、「そんなことを言った記憶はまったくない。選挙戦でもそう訴えたが、橋下氏の演説にかき消され聞いてもらえなかった」とのことでした。
タウンミーティングの違和感
総選挙の結果は、自民党と公明党の与党で326議席を獲得する圧勝。維新は、事前の予想よりも健闘して、マイナス1の41議席でした。
橋下氏は投票日の前日から、与党の下馬評があまりに強いことから、
「もうみなさん、明日、自民党、公明党、歴史的な大勝利となります。維新ははっきり言って負けます」「僕の責任だ。もう一度、僕に立て直すチャンスをください」
などと演説しました。
彼は、橋下氏の「逆説的言辞で人の心をつかむ」というある種の才能に驚きながら、「もし自分が候補者で、最終日にあの演説を聞かされたらどう思うだろうか。選挙戦を戦っている候補たちはどう思っているのだろうか」との思いを禁じえませんでした。
選挙が終わると、総選挙結果から大阪での維新の根強い人気を見てとったのか、12月25日、公明党幹部が維新の幹部と非公式に会談し、翌26日に突如「住民投票には賛成する」と表明しました。
そして年が明けて2015年1月13日に法定協議会で協定書が承認され、3月13日に大阪市議会で、3月17日には大阪府議会で可決されます。かくして4月27日告示、5月17日投開票の日程で住民投票が行われることになりました。
住民投票に向けた運動が始まると、当然のことながら彼にも招集がかかり、4月27日の告示以降彼も何回か大阪へと足を運び、仲間たちと一緒にメガホン片手に
「大阪を変えよう!」「都構想の実現を!」
と叫んで大阪の街を練り歩きました。
運動の中で彼は、橋下氏が「タウンミーティング」と称して大阪市内のそこかしこで、大きなパネルを使っての大阪都構想の説明・宣伝を行っている様子を、現場で人員整理に当りながら見ました。
しかしこのとき、橋下氏が使っていた
パネルの表示
には率直に言って驚きと失望を禁じえませんでした。
たとえば橋下氏は、大阪の有効求人倍率が2009年には0.51だったのが、2010年に大阪維新の会を結成し、2014年には1.10に倍増したとのパネルを使い、北海道や青森、沖縄と比較して、いかに維新の政治が素晴らしいかを喧伝していました。
しかし、2014年の大阪の有効求人倍率1.1は47都道府県中、16位のわが新潟県の後塵を拝する17位に過ぎず、この時東京の有効求人倍率は1.57、愛知は1.56でした。何のことはない、日本全体の景気回復による有効求人倍率の改善を、大阪よりも改善が低かった県だけを取り出して比較して、宣伝に使っていたのです。
またこの時パネル下部にあるグラフでは、0.9から1.0、1.2の間が露骨に広くなっていて、有効求人倍率の改善が過剰に認識されてしまうという、極めて姑息な方法も使われていました。
彼は、都構想のエッセンス──大阪市と言う大都市を中心として府全域を一体として再構築する──従って都構想自体には賛成でしたが、何であれ、意図的に事実を曲げて自らの政治的主張を有権者に示すことは、耐えがたいことでした。
殊に、「グラフの目盛りを黙って変える」ことは、一見小さく見えるかもしれませんが、理系を専攻してきた彼から見ると言語道断で、自らの属する政党のトップが、このような内容で演説を平気で繰り返すことに、強く戸惑いました。
その様な違和感はしかし、「大きな政治目標の実現の為」と自らに言い聞かせて飲み下しながら彼は運動を続け、5月17日の大阪都構想の最終日を迎えました。
住民投票の投票所での光景
都構想の住民投票には「投票日には運動をしてはいけない」と言う公職選挙法上の縛りはないということで、彼ら維新メンバーは、一人一人、各投票所に1日中張り付きになり、大阪市民一人一人に歩み寄って、「都構想への賛成をお願いします!」と働きかけました。
情勢は拮抗しており、「分かってる!入れるよ!」という人もいれば、黙って顔をしかめて足早に投票所に向かう人もいました。
そんな中で、一人の高齢の男性が、何も言わないうちから突然
「おお、あんた米山さんじゃないんか?」
と話しかけてきました。
新潟から遠い大阪で彼を知っているのはなぜか? と戸惑いながら彼が
「ええ、そうですが、なぜご存知で?」
と応じると、その男性は
「わしは、政治が好きでな、小泉郵政選挙で出ていたあんたのことは覚えとる。なんじゃ、今は維新なんか。あんた大層立派な学歴なのに、こんなところでまぁ難儀な事やなぁ」
と答え、続けて、
「あんたみたいな人が、あんな嘘つきの仲間になってええんか? あの橋下は嘘ばっかりやないか。あれもしたこれもしたって、調子のええことばっかり言いよって、わしらの生活は全然楽にならん」
と、滔々と維新政治への愚痴を語りました。
困惑を隠しながら笑顔で相槌を打ち続けましたが、彼は橋下氏のように「大阪都構想が実現すればすべて解決します!」と言う気にはなれず、正直にこう答えました。
「ええ。確かに橋下氏の宣伝は過大です。申し訳ありません。大阪都構想は、橋下氏が言う様なバラ色の未来を約束するものではありません。でも、やがて大阪も大阪市への人口一極集中と人口減を同時に迎えます。その中で効率的な都市開発を進めるには、府と市が一体となった解決が必要で、大阪都構想は有用な仕組みです」
その男性は、彼の胸中を見透かしたように
「なんや、あんた橋下が嘘つきだってわかっていてそうしとるんか。そりゃ一層難儀やな。ご苦労さん。でもわしは入れへんで」
と言って、彼の下を立ち去り、投票所へと向かいました。
都構想否決、そして翌日に
開票は午後8時に締め切られて9時から開票となり、彼ら維新のメンバーは、市内のホテルの会場で開票速報を見守りました。マスコミからもたらされる出口調査は、「数ポイント差で賛成派がリード」とのことで、彼らは賛成多数を半ば確信し、半ば不安を覚えながら、固唾をのんでテレビ画面を見つめていました。
彼の周囲には、第1回目の選挙で東京1区から立候補した加藤義隆氏、今は立憲民主党から参議院議員となった塩村文夏氏他の一期生やボランティアの仲間がいました。
午後10時を過ぎてもなかなか結果が出ないなか、突然後ろから
「おお、米山さん、ご苦労さん」
と声をかけられ、振り返るとやや興奮した表情の松浪氏がいました。
「出口調査だと、何とかギリギリ行けるみたいやな。それにしてもまあ、維新はいっつもほんましびれる勝負や」
そう緊張と笑顔が混じった顔で話しました。
しかし、その僅か数分後、会場は
「ああ~」
と言うどよめきで包まれました。
テレビ画面の速報に「大阪都構想否決」と言うテロップが流れたのです。その場にいた彼らも、しばし呆然とした表情でその場に立ち尽くしました。
周りから、誰ともなく、
「橋下さんどうするだろうね」
との声が上がりました。橋下氏は、大阪都構想の住民投票が否決された場合は「政治家引退」を表明していたからです。
彼は
「いや、そんなの辞める必要ないですよ。本当に理想を実現したいなら、『君子豹変す』で構わないし、今迄何度もしてきたことじゃないですか。今更ですよ。それに仮に橋下氏が辞めたら、江田さんがやればいいことです。その為の共同代表でしょう」
と言いましたが、誰からも返事はありませんでした。
その場にいたはずの松浪氏はいつの間にか姿を消していました。ほどなく会場に
「開票見守り会は終了」
とのアナウンスが流れ、彼らは其々に帰途につきました。
緊張が続いていたのか、翌日宿泊していたホテルで朝早く目を覚まし、テレビのスイッチを押すと、朝のワイドショーは都構想否決のニュースでもちきりでした。その中で、橋下氏が政治家引退を表明し、松野頼久氏(元衆議院議員)が代表に就任したことを知りました。
テレビ画面では
「大変幸せな7年半、本当に悔いがない」
と笑顔の橋下氏が繰り返し映し出されていました。
彼が呆然とテレビを眺めていると、携帯に母から電話があり、
「あんた元気? 今日帰ってくるんだよね? でも、橋下さん、さわやかでさすがだねー。たいしたもんだよ。貴方も見習いなさいよ」
と言ってきました。
彼は母に帰りの時間を告げて電話を切った後、第1回の総選挙で、執行部に放置されたまま慣れない選挙戦を全力で戦い、多額の借金を負って敗戦し政治の世界を去った仲間、大阪の街をメガホンを持ち、足を棒にして歩き回った仲間、故郷の選挙区を捨てかつての先輩の刺客に立った仲間、かつての後輩に刺客に立たれ罵倒されて落選しながらなお再起を期している仲間の顔を思い浮かべながら、TVに映し出される橋下氏の笑顔を眺め続けました。
朝の番組が終わるころ、彼はもう、心の中にある思いが、飲み下す事が出来ないところまで大きくなっている事を感じながら、TVのスイッチを切り、ホテルを後にしました。
8月27日の代表選を前に
維新は設立から2012年の設立から10年を経て、間もなく8月27日に初の「代表選挙」を迎えるものと報道されていますが、実は今を遡ること7年前、2015年11月1日に「党員・議員平等に一人一票の代表選挙」が行われるはずでした。
しかしこの代表戦は実施されることはありませんでした。同年12月に大阪市長の任期切れと共に政界を引退するはずだった橋下氏が、自らの推す大阪系の候補が勝てないことが分かった途端、突如分裂騒動を仕掛けたからです。大阪系の議員・党員だけで臨時党大会を開き、馬場伸幸氏を代表に選出し新たな党を設立したために、幻に終わりました。
今回の日本維新の会代表選挙は、大阪市長の松井一郎代表が、来年4月の市長任期をもって、政界引退を表明したことで始まりました。足立康史氏(党国会議員団政調会長)、梅村みずほ氏(参議院議員)、馬場伸幸氏(共同代表)の3氏による争いです。
しかし「後継指名はしない」と言っていた松井氏が突然、馬場氏の支援を打ち出します。同時に立候補を予定していた東徹氏(参議院議員)が「党内の亀裂を生む」ことを理由に立候補を取り下げました。再度「(橋下氏・松井氏の意を受けた)馬場氏を選ぶための茶番選挙」となる様相を呈しています。
本稿では、第1回の都構想住民投票否決から、橋下氏が突如維新の党の分裂騒動を仕掛け、当時議員でもない選挙区支部長に過ぎなかった彼が、弁護士であったために馬場氏らへの訴訟の前面に立つに至った過程、代表選挙で負けそうになった橋下氏、松井氏の内幕を書かせていただきます。
他の野党への裏切り
2015年5月17日、維新が仕掛けた大阪都構想が否決に終わると、その余韻に浸る間もなく、中央政界では、その2日前に閣議決定を経て衆議院に提出されていた、平和安全法制(安保法制)一色になりました。
この時すでにみんなの党と合流して「維新の党」となっていた維新は、衆議院21人、参議院5人の計26人の勢力となり、彼も新潟で支部長を務めていました。新代表となった松野頼久氏は、「年内に百人体制を目指す」として、野党再編によって二大政党制が再び実現する期待が広がりました。
ところがこの維新の党の新執行部の方針は、発足から1ヵ月ほどで暗雲が垂れ込めます。国対委員長だった馬場氏など「大阪系」が、「民主党左派も含む再編になると改革に後ろ向きになる」などと言って、野党であるにもかかわらず「反民主」「政府・与党との協調」に動きだしたのです。
このとき国会では、企業が派遣社員を受け入れる期間の上限を事実上なくす労働者派遣法改正案が争点になっており、野党は徹底抗戦で採決に応じていませんでした。そもそも前年の11月に、民主党、維新の党、みんなの党、生活の党の野党4党で労働者派遣法改正案の対案として「同一労働・統一賃金推進法」を提出済み。ところが、維新の党は馬場氏らが主導し、この法案を修正のうえ自民・公明・維新で共同提出することを条件として、労働者派遣法改正案の採決に応じることにしてしまったのです。
それは、一選挙区支部長に過ぎなかった彼から見ても、一旦は再編に動いていた方針を翻す、他の野党に対する余りに酷い裏切りに見えました。
その3日後の6月14日には、橋下氏と松井氏は、都内のホテルで安倍総理・菅官房長官(当時)と会談し、「安保法制について意見交換した」と明かしました。その上で会談翌日には橋下氏が「維新の党は民主党とは一線を画すべき。自民党と国のあり方について激しく論戦できる政党をめざす」とツイートしました。
同月18日の橋下氏の記者会見では、安倍総理との会談の直前、松野氏・柿沢氏と橋下氏・松井氏が会談した席で「『最高顧問を辞めたい』と伝えたら、松野さんから『発言は自由だ』と言われ(慰留され)た。安全保障は見直しの時期に来ているので、自由に言わせてもらっている」(当時の
夕刊フジの報道
)と報じられました。
結局維新の党は、安保法案については、民主党系・みんなの党系の政策通の議員達の努力の甲斐あって、良く練られた合憲と評価される
代案を提出した上で
、採決自体には応じるという対応をしました。
しかし彼としては、12月の大阪市長としての任期切れと共に政界から引退するはずの橋下氏が勝手にしゃべって、それが党の基本方針になっていくことに違和感がありました。
しかし、この時まではまだ、せっかく作った維新の党を、力を合わせて大きくしていこうという空気が、党内にはあったのだと思います。
柿沢幹事長への猛反発
維新ではこの年の9月に代表選挙を予定していました。7月7日には、「国会議員が1人1票、地方議員が5人分で1票、一般党員が200人分で1票」のルールで行われることが決まっていた。ところが橋下氏が「国会議員だけ重い価値を持つのはおかしい」と発言した途端に覆り、国会議員も地方議員も党員も、一人一票のルールで、9月から11月1日に延期して行うことが決定されました。
それが、山形市長選挙という地方選挙を境に一変します。山形市長選挙は、自民・公明他推薦の経産省出身の佐藤孝弘氏と、民主・社民・共産他推薦の防衛省出身の梅津庸成氏が激戦を展開していました。
ここで、維新の柿沢未途幹事長が慶応大学の小林節名誉教授の要請を受けて梅津氏の応援をしたことに、大阪系の議員が猛反発したのです。
この騒動で、大阪系の議員からは柿沢氏への辞任要求が相次ぎましたが、そもそも柿沢氏が応援した時点で維新は山形市長選挙への党としての態度を決めていませんでした。反発の理由はただ単に「野党系候補を応援したから」に過ぎません。
党としての方針に反したわけでもなく、維新の党自体が野党なのに「野党系の候補を応援したから幹事長を辞任せよ」と言うのは幾ら何でも理屈がとおりません。
選挙区支部長に過ぎなかった彼は、大阪系の議員たちの理由のない「狂気」に近い熱を孕んだ罵倒に、「一体、全体この人達は、自分自身が何故、何に対して怒っているのか、分かっているのだろうか?」と呆然と眺めていることしかできませんでした。
真相は分かりませんが、本当のところ、このとき大阪系の議員たちは、「幹事長ポストを自分たちの手に取り戻したい」と思っていただけではないのかと、今でも彼は思っています。
松野代表、柿沢幹事長が流石にこの理不尽な要求を突っぱねていると、8月27日、今度は橋下氏が突如「離党」の意向を国会議員へのメールで表明し、松井氏もそれに同調したことがニュースで伝えられました。
なぜひとつの地方選挙で、幹事長応援ぐらいのことで最高顧問の二人が辞めなければならないのか全く理解できませんでしたが、報道では「党を割ることはない」とのことでした(当時の彼の
ブログ記事
)。
このとき橋下氏が維新の党の国会議員団に送ったメールが残っています。
《1. 柿沢幹事長は辞任しない。2. 公開討論会は開催しない。3. 今、党が割れるようなことはしない。4. 僕と松井知事は、国政政党維新の党を離れて大阪、関西の地方政治に集中する。》旨がはっきりと記載されています。
一方、世間では「維新の党分裂」がまことしやかにささやかれる事態となっていました。
そして、その舌の根も乾かぬ翌8月28日、橋下氏は大阪府枚方市内で開いた仲間内の会合で、自身が代表を務める地域政党・大阪維新の会を国政政党化し、維新の党から独立した新党を設立する考えを示すニュースが発信されたのです。
ここから、橋下氏に率いられた「大阪系」の議員たちは、もはや隠すことなく「東京系」の議員たちを敵視・罵倒し、分裂に向けて動き出したのです。
橋下氏が突如分裂に舵を切った背景には、自ら提唱した「一人一票」の代表選により、にわかに始まった党員獲得競争がありました。そこで党員数を集計したところ、維新の党の東京組で、信頼が厚いことで知られる松木謙公衆議院議員が「大阪組」を遥かに上回る党員を獲得したことが判明。当初の「代表選挙で(橋下氏・松井氏の意を受けた)大阪系の議員が勝つ」の目算通りにいかないことがわかってきたのです。
彼は橋下氏の余りの朝令暮改ぶりに愕然としつつ、「(大阪系の議員は)党の方針に異論があるなら、自ら設定した代表戦において正々堂々と戦うべきだ」という内容の
ブログを書きました
。
送られてきた通知書に呆然
その後、9月8日に松野氏が、喧嘩両成敗的に東京系の柿沢幹事長、大阪系の馬場国会対策委員長、片山総務会長の3人を解任した後、大阪系の議員たちと東京系の党の執行部との間での分裂回避を模索します。分裂するにしても円満でと、ギリギリの交渉が行われたものの決裂しました。
10月1日、橋下氏が「今の維新は偽物」として国政政党「おおさか維新の会」を設立する記者会見を行ったのです。
10月17日、固唾をのんで成り行きを見守っていた彼の下に、東氏から「通知書」と題する書面と党大会の案内状が送付されてきました。通知書の内容は、
(1) 江田代表が辞めたのちの執行役員会で松野代表を決めたことは規約に基づかないものであり松野代表は代表ではない
(2) 仮に代表だとしても任期はその時決めた9月30日までである
(3) 規約第8条4項「…その他の重要事項に関する議案は、執行役員会が党大会に提案する」に基づき自分が実行委員長として10月24日に党大会を開催し代表を選出するというものでした。彼はこの率直にいってこの通知書に呆然としました。
(1)は今迄全員が党の代表だとして党運営を行ってきた松野代表が最初から代表でないというもので、余りにも信じられない主張でした。
(2)の任期切れは在り得るとして、これも全員同意の上11月1日に党の代表選を予定していたのですから、代表の任期はその時まで延期されていると考えるのが通常で、いきなりこれを否定するのは余りに常識外です。
(3)も無茶苦茶で、これだけの規定から、それまで何の権限もなかった東氏が突然党大会を開催して代表を選べるなら、規約など不要で、(1)や(2)の理屈など何の意味もなくなります。
ところがそのような無茶苦茶な理由の下に開催される党大会では、
A. 執行部の選任 B. 規約の改正 C. 円満分党
が議題とされていました。
これだけ出鱈目な理由で事実上のクーデター、分裂騒動を仕掛けておいて、「円満分党」も何もないものです。こみあげる感情をおさえながらも、彼は法律家として、適切な手続きではない分裂の非常識さにあきれながら、「かつてともに汗を流し、夢を語り、酒を酌み交わした同志たちの、良識ある判断を期待します」とする
ブログを記載しました
。
橋下氏の正当化、そして訴訟合戦
ほどなく彼の下に、松浪健太衆議院議員から電話がかかってきました。松浪氏は何の悪気もない明るく上気した声で、「案内届いた? 橋下が規約を読み込んだらいけんねん。(大阪系に)来るやろ?」と一気に勧誘しようと話しました。彼はその明るさに戸惑いましたが、「すみません、私はそう思いません。私は行けません」とだけ答え、電話を切りました。
一方で橋下氏は、当時すでに多くの人の間に広がっていたTwitterで、「維新の党の国会議員への法律講座」と題して、自らの主張を正当化しつつ、「東京系」の現執行部側の議員達を罵倒するツイートを矢継ぎ早にアップしていました。
しかし、率直にいってその論理は、維新の党と何の関係もない民法の委任契約についての一般論や、「平成3年の監獄法施行規則に関する最高裁判例」、憲法における「三権分立」を持ち出すもので、牽強付会、荒唐無稽としか言いようのないものでした。
橋下氏の出鱈目な「法律講座」を見て彼は、「今までの無茶苦茶な言動は『清濁併せ呑む政治家』としてまだ許容できる。しかし今この人が言っていることは、自らの政治的立場を有利にするために、弁護士と言う地位を利用して、世に偽りの法律論を騙るものだ。それは法律家として、専門家として、絶対にやってはいけないことだ。もうこの人に従うことは、金輪際できない」と思い、周囲から止められましたが、訣別の意味を込めて
橋下氏の出鱈目な主張に逐一反論する
ブログを書きました。
数々の不合理で場当たり的な言動と、
この連載でも書いた
大阪都構想でグラフの目盛りをごまかすことで揺らいでいた彼の橋下氏への信頼は、この時完全に壊れたのです。
その数日後、彼の携帯に、当時維新の党本部で政調会長を務めていた小野次郎氏から電話がありました。小野氏は奇しくも自民党で小泉選挙をともに戦った仲間でした(小野氏は当選。彼は落選)。
電話の内容は、「君のブログは読んでいる。これから大阪維新と訴訟になるが、力を貸して欲しい」というものでした。
午後8時過ぎ、彼が首相官邸の横の坂道を降りた溜池山王の党本部につくと、党職員と小野氏、今井雅人幹事長らが揃い、訴訟対策の資料が用意されていました。11月1日に予定されていた一人一票の代表選挙の空気は既に雲散霧消し、訴訟合戦が始まろうとしていました。
通帳も代表印も「大阪組」が管理
維新の党が「大阪組」と、そうでない「東京本部」で分裂するのは決定的な展開となってきました。
2015年10月20日、本格化した維新の党の分裂騒動の最中、訴訟担当として維新の党の東京本部に呼ばれた彼は、訴訟を提起しなければならなくなった事実関係を聞いて、心底驚きました。
維新の党は、松野頼久代表、今井雅人幹事長であったにもかかわらず、党員名簿から政党交付金の通帳、届出印、代表印にいたるまで、東京本部ではなく大阪の事務方が管理していたのです。
そして驚くべきことに、維新の党「大阪組」の面々は自らが「代表ではない」と否定している松野頼久代表の名前と印鑑を使って、10月20日に支給される6億6619万5750円の政党交付金を10月6日に申請していました。
これに対して、維新の党の今井幹事長が10月13日付で通帳と代表印の引き渡しを求めます。だが「大阪組」はこれを拒んだため、東京本部は対抗措置として17日に維新の党の銀行口座を凍結しました。
彼はその事実を聞き、「ああ、大阪維新の人達は、ともかく『維新』と名の付くものすべてを自分たちの手の中に持ち続けたくて、大阪組以外には何一つ渡すつもりがないんだ。それを当然のことだと思っているんだ。この人たちにとって『維新』とは、徹頭徹尾自分たちの『私物』なのだ」と思いました。
お家騒動の渦中の10月19日、維新の「創立者」である橋下徹氏はこう
ツイート
します。
《政党交付金は税金です。不要になった政党を潰し、支払いを終えて残った政党交付金を国民の皆様にお返しする。本来の維新スピリットとはこういうことです。大阪維新の会の代表として、なんとか維新の党を潰して、少しでも多くの額を国民の皆様にお返しできるよう努めます。本当に申し訳ありませんでした》
橋下氏は、まるで自らが全くお金にこだわっておらず、政党交付金を返還することが自らが仕掛けた分裂騒動の動機であったかのように言い募っていたのです。もう一度書きます、分裂を仕掛けたのは「大阪組」です。
彼は「本当にこの人は、1億2千万人の日本人に対して嘘をつくことが、まるで平気なのだ。橋下氏はもう維新から出ていったのに、なぜ関与してくるのか。とても一緒に政治をできる人じゃない」と思い、
「維新の党の未来」と題するブログの記事
を公開しました。
10月21日には、「法律意見書」が郷原信郎弁護士から提出され、郷原弁護士のブログでも公開されました(
「弁護士たる政治家」としての橋下徹氏への疑問
)。その中では
維新の党規約
の極めて常識的・妥当な解釈の帰結として、現在の松野頼久氏が維新の党の正統な代表であることが示されていました。
それと同時に、その正統な代表の許可なく代表印を用いて政党交付金等を申請し、党規約に定める手続きを無視して臨時総会を招集し、代表の変更登記を申請する行為は、偽計業務妨害罪、公正証書原本等不実記載罪、業務上横領罪の可能性が指摘されていました(
参考資料:郷原弁護士による法律意見書
)。
笑いながら解散決議に賛成票
彼は郷原弁護士の「大阪組の行為は、犯罪が成立する可能性がある」と言う指摘は正しかったと今でも思っています。
しかし、彼のブログでの抗議や郷原弁護士による法律意見書などまるで存在しないかのように、2015年10月24日、大阪市内のホテルで、東徹参議院議員、馬場衆議院議員らを始めとする「大阪組」によって臨時党大会が開催されました。そこで、維新の党の解散が決議され、馬場氏が「偽りの新代表」に選任されました。その様子は大阪組の意向で、ニコニコ動画で
配信されました
。
彼はそれまでの経過から見る気分にもなれませんでしたが「今後の訴訟の為に」と心に鞭を打つ気持ちでその動画配信を視聴しました。
そこでは予想通り、現在日本維新の会の代表となっている馬場信幸氏や東氏が、橋下氏の論理や主張をそのまま読み上げ、すべての議案が、232人の出席者全員の起立で可決されました。そして最終的な「維新の党解散決議案」は投票となり、出席者が陶然とした表情で、時に笑顔を交えながら投票していく様子が映し出されました。
自らの所属する政党の解散決議に対する賛成票を、党員たちが笑いながら投票していくというのは、ホラー以外の何物でもありませんでした。
その中には、ともにより良い新しい政治を作ろうとする同志だと思っていた友人たちもいました。「それぞれの立場」と割り切ることができればよかったのかもしれません。
しかし彼は「ああ、この人たちは、あの橋下氏の無茶苦茶な理屈に基づく、道理を無視した解散決議に賛成できるんだ……そして馬場氏や東氏の、普通に考えて違法な行為を容認できるんだ……そうであるならそれはもう、どんなに好人物であっても、僕とは相いれない。政治家としては、まったく別の存在だ」との思いを禁じ得ませんでした。
なんの権限もない「大阪組の臨時党大会」が開催された以上、話し合いによる「円満分党」は不可能となり、彼は急ピッチで訴状の作成を進めました。
訴状の内容は「維新の党が所有している名簿・通帳・印鑑を、『大阪組』が不法占有しているのでその返還を求める」と言う極めて単純なものです。その作業のため、訴状に添付する法人登記を取得した段階で、彼はまたも驚愕しました。
橋下氏は2014年の総選挙敗北後の12月23日に、代表辞任を表明し、そこからは江田憲司氏が代表となり、党を切り盛りしていた。ところが登記を見ると、橋下氏は2015年8月27日まで代表を辞任していなかったのです。
橋下氏の出演しているテレビ朝日の
「橋下×羽鳥の番組」
には彼も出演し、この点を指摘しました。橋下氏は「単なる事務方の登記手続き上のミス」と弁解していましたが、8ヵ月間も代表辞任登記が放置されていたのです。橋下氏は弁護士です。単純ミスは考えられません。ほぼ確実に意図的なものだったと思われます。
なぜ橋下氏は代表登記を書き換えなかったのか
彼は、橋下氏がなぜこんなことをしたのか、その動機を真剣に考えましたが、「橋下氏は世の中に対しては『潔く辞任する!』と恰好の良いことを言いながら、登記上は江田氏・松野氏との共同代表に留まることで、万が一の場合に党をコントロールする保険をかけていた」以外のものは思いつきませんでした。
彼の中で、「橋下氏と言う人物の言は、何一つ信ずることができない」との「疑い」は「確信」に変わりつつありました。
この登記から、松野氏の選任手続きに関する橋下氏の言い分に疑いを持った彼は、10月30日の訴状提出時に、この登記の申請書類の閲覧手続きを行いました。
そこには、橋下氏が代表に留まり、松野氏が選任された手続き──橋下氏が公式に主張している「江田代表の辞任に伴い、松野代表が執行役員会で選任された」とは異なる手続きが記載されている筈だったからです。
開示された2015年5月19日付の登記申請書類は、さらに驚くべきものでした。何と大阪都構想が否決された直後の5月19日、執行役員会には、本来役員ではないはずの橋下氏が「代表者」として出席し、江田氏の辞任の後、橋下氏が議長となり、橋下氏が松野氏を新代表に指名していました。これは執行役員会で可決され、法人実印とはいえ橋下氏自身がこれに印を押していたのです。
彼は「代表ではないのに、代表であるとして執行役員会の議長となり、法人実印まで押印した橋下氏は本当に弁護士なのか?」との思いを禁じ得ませんでした。
維新の党の分裂騒動は、騒動ばかりがクローズアップされて、その中身が置き去りになった感がありましたが、橋下氏ら「大阪組」による「松野代表に代表権はない」という主張の概略は以下でした。
(1) (前年12月23日に橋下氏が辞任したことを前提として)5月19日に江田氏が辞任したことで維新の党は代表不在になり、これによって執行役員も不在になったから、執行役員会による松野氏の選任は無効であり、松野氏は代表権限を有しない。
(2) 地方分権を旨とする維新の党の規約は「合憲限定解釈や委任の法理」に基づいて解釈しなければならないので、執行役員会には代表選任権限や任期延長権限はない。
(3) 仮に松野氏が代表権限を有したとしてもその任期は9月30日までであり、代表選挙のある11月1日まで任期を延長した執行役員会の決定は(2)に基づいて無効である。
登記申請書類に記載されていた事実経過が真実で、執行役員会の選任が事実追認で行われたのか。あるいは単に登記用の方便として書かれたことなのか。それは分かりませんが、いずれであるにせよ「大阪組」の事務局が、法に触れかねない書面を橋下氏の了承なしで作ることはまず考えられません。この書面はほぼ確実に橋下氏の了承か、むしろその主導で作られたものでしょう。
根底から覆る橋下氏の主張
この書面に書かれたことが事実であり、執行役員会が事実追認であるというなら、橋下氏は2014年12月23日の辞任発表の時点から分裂騒動、そしてこの記事を書いている今に至るまで、世の中に対して「自分は2014年の総選挙敗北をもって維新の党の代表を辞任した」という嘘をついた、国民を欺いたことになります。
この場合、橋下氏は代表に留まっていますので、上記(1)の「5月19日に江田氏が辞任したことで維新の党は代表不在になり、これによって執行役員も不在になったから、執行役員会による松野氏の選任は無効であり、松野氏は代表権限を有しない」と言うその主張は、根底から覆ることになります。
一方、そうではなく、橋下氏の言っている経過は真実であり、この登記申請書類は単に方便だったとしても、登記に虚偽の事実を記載して恥じない人物だということになります。
そのいずれであるにせよ、橋下氏は、自らが積極的に指名し選任した(少なくともその旨の文書に自らの印を押す事を許容した)松野氏が、5月19日時点から代表ではなかったという、極めて矛盾した支離滅裂ともいえる主張で、維新分裂騒動を主導したということになるのです。
この登記申請書類を見た瞬間、彼の中にあった「橋下氏という人物の言は、何一つ信ずることができない」という疑いは、確信に変わりました。
10月30日、訴状提出後ただちに、彼は松野代表の
記者会見要旨を起案し
、会見にも赴きました。
そのとき、落選中の森夏枝氏(後に衆議院議員)が東京本部スタッフとして働いていました。彼は森氏の「大阪組」(橋下氏)への傾倒ぶりを知っていましたので、少々意地悪く「お久しぶり。こんな所で働いていていいの?」と笑いながら声をかけましたが、森氏は「いえいえ」と苦笑いだけして持ち場に戻っていきました。
その後彼は、通帳・印鑑の取戻しについても訴状を作成し、12月11日に訴訟提起を行いました。
これらの2つの訴訟の進行とともに、さらに彼は、党員の除名問題への対処と、12月中旬に支給される政党交付金問題への対応も担当することになりました。
彼が東京本部に呼ばれて法的対応を開始する前の10月14日、維新の党は、橋下氏が設立する国政政党への参加を公然と表明していた馬場氏、東氏、片山虎之助氏を除名にしました。その後、橋下氏の新党への参加を表明していた国会議員9人と地方議員など162人も除名処分とします。「大阪組」はこれを「無効だ」と言って効力を争っていたのです。
馬場氏の交際費問題
また、政党交付金問題への対応は以下のようなものでした。
「大阪組」は、前述の橋下氏の「大阪維新の会の代表として、なんとか維新の党を潰して、少しでも多くの額を国民の皆様にお返しできるよう努めます。本当に申し訳ありませんでした」との内容のツイートだけでなく、自ら行った解党決議とは裏腹に、新たな政党交付金を得ようとしていました。
彼らは維新の党の代表を馬場氏に切り替え、凍結された口座に代わって新たなものを開設して、政党交付金の申請をしました。申請期限は12月10日までと迫っていました。「大阪組」に政党交付金が支払われたら東京本部は受け取れませんので、当然ながら阻止する必要がありました。
そこで問題への対応のため、松木謙公議員が10月16日に大阪本部を訪ね、代表印、通帳、印鑑カードの返還を求めました。彼は松木氏から、詳細を聞きました。中でも印象深かったのは「大阪組」の井上英孝衆議院議員、浦野靖人衆議院議員の口調で、正直それは「その筋の方」を彷彿とさせるものがあったそうです。
彼の記憶に残ったのは、松木議員と浦野議員の会話で、松木議員が「まあ馬場さんが飲んじゃったお金なんかは不問にしていわないでやるから、ここはちゃんと渡してよ」と言ったとたんにあたふたとした感じになったという一節でした(ただしこれは彼が当時松木議員から聞いた記憶に基づくもので、今般松木議員に確認したところ「記憶していない」とのことでした)。
この会話の意味を解説しておくと、当時大阪組が通帳を死守していた理由の一つには、除名前に国会対策委員長だった馬場信幸議員が、月三百万円以上の交際費を使って飲み歩いていると報道され、それを隠蔽するためだと
噂されていました
。最終的に彼は通帳を見ていないので真偽は不明ですが、「さもありなん」との思いを、禁じ得ませんでした。
彼がこのとき見た「大阪組」の姿は、自分勝手で理不尽な「金の亡者」以外の何物でもありませんでした。それを如実に示す事件は、11月4日に起こりました。
彼のもとに東京本部の事務局から「維新の党国会議員団本部代表松野頼久(参議院口)」の通帳口座から、片山氏によって250万円が勝手に引き出されたとの一報が入ったのです。
驚いた彼が聞いた経緯はこういうものでした。
「参議院では片山氏の力が強く、片山氏の秘書に繰り返し強く言われて事務局の者が10月28日に『勝手に引き出してはいけない』と強く伝えたうえ、通帳とカードを渡してしまった。今日確認すると、口座からお金がなくなっていた」
いくら通帳とカードを持っているとはいえ、分裂騒動の真っただ中に「維新の党国会議員団本部代表松野頼久(参議院口)」とある口座から、250万円ものお金を引き出す片山氏には、業務上横領が成立しうるものです。
片山氏側はこの250万円は手を付けずに管理しているとのことで、東京本部では穏便な返還交渉を進めていましたが、彼は刑事告訴を強く進言し、その準備も進められることになりました。
10月20日に維新の党東京本部に呼ばれてからわずか2週間余りの間に、彼は(1)名簿・通帳・印鑑の取戻し訴訟 (2)「大阪組」の除名手続きへの対応 (3)政党交付金申請への対応 (4)片山氏に対する刑事告訴への対応、と4つの手続きを抱えることになったのです。
毎月300万円の大豪遊…分裂「維新」大阪組の異常なカネ遣い
2015年10月3日
大モメになっている「維新の党」の分裂騒動。その原因はカネだ。
橋下徹大阪市長ら“大阪組”は1日、国政新党「おおさか維新の会」を結成すると表明。政党交付金を半分受け取ることができる「分党」の形を求めている。だが、自ら党を割る形で出ていって、「カネを半分よこせ」とは虫がよすぎるのではないか。松野頼久代表は難色を示しており、収拾がつかない状態だ。
残留組が大阪組にカネを渡したくないのには理由があるという。大阪組で前国対委員長の馬場伸幸衆院議員の金遣いの荒さが大問題になっているのだ。なんと毎月300万円もの党のカネを使って、連日連夜、飲めや歌えやのドンチャン騒ぎをしていたという。このことは、さすがに橋下の耳にも入って、カンカンになっているようだ。
「馬場さんの遊びっぷりは有名でした。党の内規で国対委員長が使えるカネは毎月70万円まで。しかし、250万~300万円も支出していた。仲間やメディアを引き連れ、銀座や赤坂などの高級店で遊び回っていたようです。いまどき自民党の大物政治家でもこんなカネ遣いはしませんよ」(永田町関係者)
■大阪都構想には党費6億5000万円
それにしても、毎月300万円だとしたら、年間3600万円。一般サラリーマンの年収の7、8倍ものカネを使って、飲み食いしていたのだから呆れるほかない。なぜ、こんなに使ってしまったのか。馬場氏の事務所はこう説明する。
「そんなには使っていません。だいたい月100万円くらいだと思います。ただ、党に領収書を渡しており、証明できるモノがないので、具体的な数字はわかりませんが……」
どうやら、どのくらい使ったかわからないほど散財していたらしい。異常な金銭感覚だ。維新に詳しい政界関係者がこう言う。
「維新の党は、ただでさえ大阪都構想のために、党のカネを6億5000万円も使っています。勝手に出ていく人たちに、なぜ、政党交付金の半分を渡さないといけないのか。さすがに、党本部もこれはのめないでしょう」
政党助成金で飲み食いしておきながら、橋下新党が「身を切る改革」を掲げるとはブラックジョークだ。