暴力革命集団(過激派テロリスト)
 昭和30年代初頭、路線対立等の理由から、日本共産党を除名されたり、離党した者が中心となって、日本共産党に代わって、我が国で暴力により共産主義革命を起こすことを目的とする集団が生まれました。これが過激派です。
 日本共産党が、それまで採っていた武装闘争を「極左冒険主義」と自己批判し、30年7月の第6回全国協議会(6全協)で戦術転換を図ったことから、武装闘争の中心となっていた学生党員等の間で指導部への不信感が生まれました。
 また、時期を同じくして、共産主義者の間で絶対的存在であったスターリンに対する批判がその死後に高まったり、ソ連が同じ共産圏のポーランドやハンガリーに対して武力介入を行ったことから、既存のマルクス・レーニン主義に対する懐疑も深まりました。
 こうした状況の中で、スターリンと対立して暗殺されたトロツキーを再評価する動きが国内で高まり、彼の思想であるトロツキズムを研究し、それに基づく革命の実現を目指す元共産党員らが中心となって、32年1月、日本トロツキスト連盟を結成し、同年12月には革命的共産主義者同盟(以下「革共同」という。)と改称しました。これが現在の過激派の二大勢力である革マル派と中核派の母体です。
 また、23年9月に日本共産党の指導下に結成された学生組織である全日本学生自治会総連合(以下「全学連」という。)は、日本共産党の路線変更や、消極的な指導方針に不信と不満を抱き、33年5月に開催された全学連第11回大会では、日本共産党指導部に反旗を翻す全学連主流派と、日本共産党指導部に従う反主流派が激しく対立し、その後、大量の学生党員が除名等の処分を受けました。
 これを機に、全学連主流派は、完全に日本共産党の指導から離脱し、同年12月、独自に共産主義者同盟(以下「共産同」という。)を結成するとともに、35年4月には全学連も共産同系全学連と日本共産党系全学連に分裂しました。これが現在の共産同系各派の母体です。
 この他に、日本共産党が中国共産党との関係を断絶した時期に除名、離党した党員らが中心になって結成した親中共派や日本共産党の綱領論争の過程で離党した党員らが結成した構造改革派、社会党の青年組織である社会主義青年同盟(以下「社青同」という。)に入り込んだトロツキスト集団が後に組織を乗っ取る形で独立した革命的労働者協会(以下「革労協」という。)等が誕生し、現在の過激派の流れを形成しています。
 こうした過激派各派は、続く「60年安保闘争」において重要な役割を果たすこととなりました。
1 60年安保闘争と過激派の暴走
 「安保闘争」とは、サンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約の改定等に反対して取り組まれた闘争で、社会・共産の両党や総評等の労組が中心となって全国的に展開された社会運動でした。
 その山場は、昭和35年と45年であり、それぞれ西暦の末尾を取って「60年安保闘争」、「70年安保闘争」と呼ばれました。
 「60年安保闘争」は、34年3月、日米安保条約の改定交渉が本格化する中で、日本社会党、総評等による「安保条約改定阻止国民会議」が結成されたことにより始まったもので、34年4月から取り組まれました。
 これに対して過激派は、同会議の集会、デモ等の大衆行動に介入し、暴力的な行動を煽動するなどして、我が国の治安に大きな影響を与えました。特に、共産同系の全学連は、共産主義革命の理論には必ずしも賛同しない一般の学生に対する働き掛けを強め、「反安保」を軸に結集を図り、自らのもくろみである革命情勢を作り出すために、過激な行動へと駆り立て、国会周辺は連日数千から数万のデモ隊が押し寄せる状態となりました。
 その例として、「国会構内乱入事件」(34年11月)、「国会請願デモ事件」(35年4月)、「首相官邸乱入事件」(35年5月、6月)等の事件を引き起こしました。これらの事件では、共産同系全学連は、角材や石塊で武装し、警備に当たっていた警察部隊と激しい衝突を繰り返し、双方に多数の負傷者を出しました。そして、新安保条約の批准成立を目前に控えた35年6月15日には、「安保決戦」を叫んで、再び国会構内へ乱入し、ついに女子学生1人が死亡する事態に至りました。
 しかし、こうした過激な反対行動にもかかわらず、新安保条約は、同年6月23日に日米両政府が批准書を交換し発効、当時の岸首相はこれをもって退陣を表明しました。このため、反対勢力各派は闘争目標を失い、「60年安保闘争」は急速に沈静化しました。
 共産同はこの闘争の指導責任をめぐって内部分裂に陥り、組織は崩壊することになりました。
 一方、革共同は、33年8月と34年8月の2回にわたり、路線をめぐる意見の対立から分裂を繰り返していましたが、35年9月には、崩壊した共産同から多数の有力活動家が合流し、勢力を伸ばしました。しかし、38年2月、再び路線をめぐる意見対立から分裂し、ここに革マル派と中核派が誕生しました。
 過激派は、「60年安保闘争」以降、大衆を広く引きつける闘争課題を模索するとともに、同闘争で大量の検挙者を出したり、組織が分裂したため、組織の建て直しを図りました。
「国会構内乱入事件」
 (昭和34年11月27日、東京)(PANA)
2 70年安保闘争を主導した過激派
 昭和41年9月、いったんは崩壊した共産同が紆余曲折を経て再建にこぎ着けたのに続き、同年12月には、中核派、社学同、社青同解放派による、いわゆる「三派系全学連」が結成されました。
 こうした中、過激派は、45年6月に安保条約が再び延長の期限を迎えることから、「70年安保闘争」を主要な闘争課題に据えたほか、戦後米国の統治下に置かれていた沖縄の本土復帰を求める運動に介入し、両者を絡めた「安保・沖縄闘争」を掲げて、「60年安保闘争」時の高揚を再現することをもくろみました。
 その手始めとして、過激派は、42年10月と11月に、佐藤首相の外遊を阻止するため、羽田空港周辺を混乱に陥れることを画策し、ヘルメット、覆面姿に角材、石塊で武装した活動家多数を動員し、警備に当たっていた警察部隊に組織的、計画的な攻撃を加え、双方に多数の負傷者を出すとともに、空港ロビー等を破壊しました。
 続いて、43年1月の「米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争」、同年2月から4月の「米軍王子野戦病院開設阻止闘争」等、当時激化していたベトナム戦争に伴う反戦闘争にも取り組みました。
 さらに、同年10月には、ベトナム戦争に反対する各種労組、市民団体等の呼び掛けによる「国際反戦デー統一行動」で、過激派はこれまで以上に激しい闘争形態をとり、特に新宿駅では駅構内に侵入して関係施設を破壊し、騒ぎで集まった群衆をも巻き込んで周辺は大混乱に陥ったため、警察は27年5月の「皇居前メーデー事件」以来16年振りに騒擾罪を適用し、多数の関係者を逮捕しました(「新宿騒擾事件」)。
 この後も過激派は「安保阻止」を掲げて、街頭での武装闘争に明け暮れ、警察部隊との衝突を繰り返し、この間双方に多数の負傷者を出し、警察官が殺害される事件も発生しましたが、46年11月の「渋谷暴動事件」と「日比谷暴動事件」で、約2,000人もの活動家が逮捕され、闘争はひとまず終息しました。
 一方、こうした闘争の拠点づくりのため、過激派は学生運動への介入を強め、全国の大学では、ストライキやバリケードによる封鎖が横行し、大学は正常な授業ができない状況に追い込まれました。元来学生運動は、学費値上げに伴い大学側の経営姿勢を問いただすなどの目的で一般学生の間で自然発生的に生まれた活動でしたが、これに過激派が介入し、次第に暴力的色彩を強めていったという事情があります。
 44年1月には、東大構内に立てこもる過激派を警察部隊が排除した「東大封鎖解除事件」がありましたが、こうした事態に反発した世論の後押しもあり、8月には「大学の運営に関する臨時措置法」が成立・施行され、全国の大学も正常化に向かいました。
「沖縄返還協定調印反対闘争」
 (昭和46年6月、東京)
「米軍王子野戦病院開設阻止闘争」
 (昭和43年2月~4月、東京)
早稲田大学の封鎖解除のため構内に
 入る機動隊(昭和44年9月3日、東京)(読売)
1 武装し凶悪化した過激派
 過激派は、「70年安保闘争」を通じて多くの検挙者を出したことや、これに対する世論の批判も高まったことから、それまでのように大量の活動家を街頭に動員し、大衆を巻き込んで武装闘争を展開することが困難になりました。また、内部でも、闘争方針や指導責任をめぐる対立が生じ、分裂を繰り返しました。
 こうした中で、共産同の中から、最も過激な闘争方針を主張する集団が分裂し、昭和44年9月に赤軍派を結成しました。赤軍派は、警察施設を襲撃するなど過激な闘争を繰り返し、同年11月には、総理官邸を襲撃、占拠する目的で、ナイフや爆弾を用意して軍事訓練中の活動家約50人が検挙されました(「大菩薩峠事件」)。
 一方、親中共派系の日本共産党革命左派神奈川県委員会も過激な軍事路線を採り、警察施設の襲撃等を行っていたため、同委員会と赤軍派は連携を深め、46年7月には軍事組織を統合し、連合赤軍を結成しました。
 この連合赤軍は、47年2月、警察部隊に追いつめられ、人質を取って長野県軽井沢の「あさま山荘」に立てこもりました。10日間にわたり、ライフル銃や爆弾等で激しく抵抗し、警察官2人が殉職するなどしましたが、犯人5人は全員逮捕されました。
 その後の取調べで、連合赤軍が、結成直後及び山岳アジトを転々とする間に「総括」に名を借りて、12人の仲間を殺害した「大量リンチ殺害事件」(46年12月から47年2月)が明らかとなり、社会に大きな衝撃を与えました。
 また、赤軍派は、北朝鮮に革命の拠点を作ることを目的として、45年3月に「よど号ハイジャック事件」を引き起こしました。続いて46年2月には同様の目的で中東へ活動家を送り出し、これが日本赤軍の母体となりました。
「あさま山荘事件」(昭和47年2月19日~28日、長野)
2 一般市民を巻き込む無差別な爆弾闘争に走った過激派
 連合赤軍等の軍事路線は、世論には到底受け入れられないものでしたが、過激派内部には次第に浸透し、中には軍事路線を採り、専門の部隊を編成して爆弾製造等に踏み切るセクトが出てきました。
 昭和44年から45年ころにかけての爆弾は、まだ初期段階で威力も弱かったのですが、次第にダイナマイト等が用いられようになり、46年から56年にかけては、警察施設や、官公庁、一般企業等に対する爆弾事件が多発し、多数の死傷者を出しました。
 なかでも、49年8月の「三菱重工ビル爆破事件」は、通行人ら8人が死亡、380人が負傷する大惨事となりました。
 この事件は、既存の過激派の枠にとらわれない、少人数のグループ(いわゆる黒ヘルグループ)により引き起こされましたが、警察による摘発、逮捕等により、同グループは壊滅しました。
 一方、中核派は、50年9月に、横須賀市内で製造中の爆弾を誤爆させ、アパート1棟が全壊し、活動家3人と巻き添えの市民2人が死亡する事件を引き起こしました(「横須賀市緑荘爆発事件」)。
 同派は、この事件の後、一時爆弾闘争を中断しましたが、60年1月から再開し、小型マイクロバスを跡形もなく大破させる威力を持つ「圧力釜爆弾」や飛距離数キロメートルに及ぶ迫撃弾を使用するようになりました。
 革労協も、63年3月に爆弾を使用して以降、凶悪な爆弾事件を引き起こしています。また、過激派は、爆弾のほか、時限式発火装置を開発し、放火事件も繰り返しています。
 特に、昭和天皇の崩御とそれに伴う平成天皇の御即位があった平成元年から2年にかけて、過激派は「90年天皇決戦」を主張して、かつてない規模で「テロ、ゲリラ」事件を引き起こし、2年中には全国で143件も発生しました。
 過激派の「テロ、ゲリラ」事件では、警察官はもとより、民間人からも死者を含む犠牲者が多数出ており、警察では、強力に捜査を推進して、犯人検挙と未然防止に全力を挙げています。
「横須賀市緑荘爆発事件」(昭和50年9月4日、神奈川)
 「内ゲバ」とは「内部のゲバルト(ドイツ語で暴力の意味)」で、それぞれ自派の正当性を主張して引き起こされてきました。
 昭和36年ころから、主として全学連の主導権争いをめぐり、集団で旗竿、角材等を使用して殴り合う形で始まり、当初は、学生の集団同士が大学内で衝突するという形態でした。それが次第にエスカレートし、学生のみならず、労働者活動家も加わり、武器も鉄パイプや斧等となり、攻撃対象をあらかじめ選定して自宅や路上で襲うなど、殺害を企図して計画的に行われるようになりました。
 革マル派は、中核派と革労協の両派との間でそれぞれ凶悪な「内ゲバ」を繰り返していましたが、この状態の決着を一挙に図ろうとし、50年3月に中核派書記長を、52年2月には革労協書記長をそれぞれ「内ゲバ」で殺害しました。しかし、そのためかえって両派の強力な反撃を受けることになり、泥沼化することとなりました。
 これまでに、「内ゲバ」の被害者は死者だけでも100人を超えています。
 なお、革労協は平成11年5月に主流派と反主流派に分裂し、その後、両者の間で死者を伴う「内内ゲバ」事件が発生しています。
「浦和市車両放火内ゲバ殺人事件」
 (昭和52年4月15日、埼玉)
 昭和41年7月、新東京国際空港(以下「成田空港」という。)の建設予定地が千葉県成田市三里塚に閣議決定されたことを受け、地元農民を中心にして「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下「反対同盟」という。)が結成され、空港建設反対運動(いわゆる成田闘争)が開始されました。当初は、農民が農地を守るというものでしたが、翌42年9月に過激派が介入したことにより、成田闘争は長期かつ過激な闘争へと転化しました。
 過激派のねらいは、成田空港を「日帝の海外侵略基地」、「軍事空港」等ととらえ、「70年安保闘争」で盛り上がりをみせた武装闘争を引き継ぐために、成田を「革命の砦」と位置付け、過激な闘争を展開し、我が国を革命情勢に引き込むことにあります。
 闘争に介入した過激派は、現地に団結小屋を建設し、「援農(えんのう)」名目で反対同盟の取り込みを図りながら、次第に反対闘争の主役を演じるようになりました。そして、46年2月の土地収用法に基づく代執行阻止闘争や53年3月の開港阻止闘争、60年10月の二期工事阻止闘争等の過程で、大量の火炎びんや石塊を警察部隊に投げ込んだり、竹槍、鉄パイプ等を使用した大規模な武装闘争を展開しました。
 この間、46年9月の第二次代執行時には、藪の中に潜んでいた過激派等が、警備中の機動隊員を襲撃して3人を殺害した「東峰十字路警察官殺害事件」を始め、開港目前の53年3月には、過激派が管制塔に乱入して管制機器類を破壊した「新東京国際空港管制塔乱入事件」等、数多くの「テロ、ゲリラ」事件等を引き起こしました。
 また、暴挙の矛先を民間人にも向け、58年6月には、空港建設に携わる企業の作業員宿舎に放火して作業員2人を殺害したのを始め、63年9月には千葉県収用委員会会長を帰宅途中に待ち伏せ、鉄パイプ等でめった打ちにして重傷を負わせるなど、これまでに過激派の「テロ、ゲリラ」により、民間人等6人、警察官4人が殺害されたほか、多くの人が被害を受けています。
 過激派は、最近でも、千葉県や空港公団(現成田国際空港株式会社)関係者等の自宅や空港へ乗り入れている電車をねらい、時限式発火装置を仕掛けて放火するなどの凶悪な「テロ、ゲリラ」事件を引き起こしています。
 成田空港は、平成16年4月に民営化されましたが、2本目の滑走路(平行滑走路)用地内に反対同盟員が所有する未買収地が残っているため、同滑走路はいまだ完成しておらず、本来の計画より短い距離の滑走路で暫定的に運用されています。
 過激派は、「成田空港廃港のその日まで革命的ゲリラ戦をさらに激烈に戦取することを宣言する」と主張しており、成田空港の民営化後も、従来の姿勢を変えることなく、今後も千葉県や空港会社関係者、空港関連施設等をねらった「テロ、ゲリラ」事件を引き起こすおそれがあります。
「成田現地闘争」(昭和60年10月20日、千葉)
 革マル派は、過激派の中でも最大級の約5,000人の活動家を擁していますが、極めて特異なセクトです。
 革マル派は、昭和50年代ころまで陰湿な「テロ、ゲリラ」事件を次々に引き起こしましたが、最近は、表面上は暴力性、党派性を隠して、組織拡大に重点を置き、JR総連やJR東労組を始めとする基幹産業の労働組合や各界各層への浸透を図る戦術を採っています。
 また、同派は、街頭での集会、デモの際にも、セクト名を出さず実行委員会形式によりカモフラージュしたり、参加者同士がペンネームを使用するなど閉鎖性、秘匿性が強いほか、他党派と共闘することもなく排他性が強いのも特徴です。
 同派は、「内ゲバ」で中核派と革労協の最高幹部を殺害した後、「勝利宣言」を出しました。ところが、その後も両派からの「内ゲバ」を受け続けたため、「権力謀略論」を唱え始めました。つまり、革マル派によって壊滅させられた中核派や革労協は、「内ゲバ」を行う力量はなく、実際は、警察等の国家権力が革マル派の活動家を襲撃しているという荒唐無稽なものです。
 さらに近年では、「神戸市須磨区小学生殺人等事件」(以下「神戸事件」という。)、「イラクにおける外務省職員殺害事件」(平成15年11月)等の社会的に注目される事件も、国家権力やアメリカのCIAによる謀略であると主張するなど、特異な主張を強めています。特に、「神戸事件」に関しては、自派の主張を裏付けるため、被疑少年の供述調書を盗み出したり、両親宅の盗聴を行いました。
 同派が「権力謀略論」にこだわる背景には、反権力意識の高揚や組織の引き締め等の目的があると思われます。
浦安アジトから押収された警察無線解読機器等
 (平成10年4月9日、千葉)
「神戸事件」被疑少年両親宅に設置されていた盗聴器
 元号も平成に改まり、平成2年にはソ連が崩壊し、他の社会主義諸国でも民主化の流れが強まるなど、国際社会も激動の時代を迎えました。
 こうした中、過激派は、これまでの暴力による共産主義革命を前面に出した取組みでは幅広い大衆の共感を得られないと判断し、組織名称や機関紙名称をよりソフトなものに改めたり、環境や人権問題への取組みを強調するなど、時代の変化に合わせ、暴力性、党派性を隠して勢力の拡大を模索しています。
日本赤軍
1 日本赤軍の誕生
 日本赤軍は、マルクス・レーニン主義に基づく日本革命と世界の共産主義化の実現を目的として国内で警察署の襲撃、銀行強盗、多数の死傷者を出した連続企業爆破事件等の凶悪な犯罪を犯した過激派グループの一派が、「国際根拠地論」を打ち出して、海外に革命の根拠地を求めて脱出した後、結成された国際テロ組織です。
 昭和46年2月、偽装結婚した上でレバノン・ベイルートに出国した奥平剛士、重信房子は、同じくマルクス・レーニン主義に立脚するPFLP(パレスチナ解放人民戦線)へ共同武装闘争を申し入れ、その支援を取り付け、中東での活動を始めました。
2 テルアビブ・ロッド空港事件
 中東に活動基盤を形成した日本赤軍は、昭和47年5月、イスラエルのテルアビブ・ロッド国際空港で、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人が、自動小銃を乱射、手榴弾数発を投てきし、24人を死亡させ、76人に重軽傷を負わすテロ事件を起こしました。
「テルアビブ・ロッド空港事件」
 (昭和47年5月30日)(共同)
 
3 国際テロ組織「日本赤軍」
 日本赤軍は、昭和49年以降52年までの間、PFLPとの共闘によりテロ活動を活発化させる傍ら、49年7月にパリ・オルリー空港において偽造旅券を使用したメンバーが逮捕されたことを皮切りに、多数の関係者が身柄を拘束されました。さらに、49年にはこれら拘束されたメンバーの釈放を求めて、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠しました。
 その後、世界各地でメンバーが相次いで検挙されたことから、日本赤軍は、在監・拘留中のメンバーの奪還を目的に、50年8月にマレーシア・クアラルンプール所在の米国大使館等を占拠(「クアラルンプール事件」)し、さらに、52年9月にはパリ発東京行きの日航機をハイジャック(「ダッカ事件」)しました。我が国政府は、犯人側と数度の交渉を試みましたが、人命尊重の見地から、超法規的措置により両事件で合計11人の在監・拘留中の日本赤軍メンバー等の釈放を余儀なくされました。
 その後、57年6月のイスラエル軍によるレバノン侵攻を受け、本拠地ベイルートを撤退した日本赤軍は、60年5月、イスラエルとPFLP―GC(パレスチナ解放戦線総司令部)との捕虜交換により釈放された岡本公三を迎え、61年以降、再びテロ活動を再開させ、ジャカルタ、ローマ、ナポリと相次いでテロ事件を引き起こしました。
「クアラルンプール事件」(昭和50年8月)(PANA)
4 相次ぐメンバーの逮捕
 こうした中、昭和62年11月に東京都内で日本赤軍メンバー丸岡修が、63年4月には米国で菊村憂が、同年6月にはフィリピンで泉水博が相次いで発見・逮捕され、レバノンを撤退した日本赤軍が、友好的な革命組織との共闘関係を醸成するために、世界各地で暗躍している姿が浮き彫りになりました。
 その後、警察は、ルーマニアに日本赤軍メンバー浴田由紀子が潜伏していることを突き止め、平成7年3月に逮捕、8年6月にはペルーに潜伏していたメンバーを逮捕しました。また、ネパール国内に潜伏していた城崎勉については、同年9月に身柄拘束後、米国に引き渡す措置が採られ、さらに、9年11月にはボリビアに潜伏していた西川純が身柄を拘束されました。同年2月には、レバノンに潜伏していた日本赤軍メンバー5人が一斉に検挙され、レバノンへの政治亡命が認められた岡本公三を除く4人は、12年3月に国外退去処分となり、警察は、帰国と同時に逮捕・収監しました。
5 最高幹部重信房子の逮捕
 昭和46年2月に奥平剛士、重信房子が渡航して以来のレバノンという根拠地を失った日本赤軍は、地理的にも文化的にも日本に近いアジア地域を国内における組織固めや国際戦線形成のための新たな戦略上の拠点と位置付けました。こうした中、警察は、平成12年11月に国内に潜伏していた日本赤軍最高幹部重信房子を大阪で逮捕しました。重信房子の国内潜伏の目的の一つが、日本赤軍の拠点を日本に移すための準備作業であったことは間違いありません。
 また、重信房子の逮捕に伴い押収した資料を分析した結果、日本赤軍は、3年8月にマルクス・レーニン主義による日本革命及び世界革命を目的とした「人民革命党」を設立していたことが判明し、その党内には、軍事機関を設けるなど引き続き軍事路線を堅持しており、その主張も日本赤軍と同一であることが分かりました。
6 日本赤軍の解散宣言
 平成13年4月、重信房子は獄中から日本赤軍の解散を宣言する文書を公表しましたが、革命のための武装闘争を完全に否定しておらず、さらに、逃亡中の7人のメンバーに関しても、何ら言及しませんでした。
7 警察の対応
 現在、日本赤軍は、最高幹部重信房子の逮捕に伴い、組織の建て直しと新たな活動拠点の構築を最大の関心事として取り組んでいるとみられ、テロ活動を再開させる可能性は低下していると思われます。しかし一方で、テロ組織としての性格を依然として堅持しており、その危険性に変わりはなく、警察は、逃亡中のメンバーの早期発見・逮捕、活動実態の把握に努めているところです。
日本が国際手配中のテロリスト
1 よど号ハイジャック犯人とよど号グループの活動
 「よど号ハイジャック事件」は、武装した共産主義者同盟赤軍派の活動家9人が昭和45年3月、日本航空351便・通称「よど号」を乗っ取り、乗客122人、乗員7人の合計129人を人質に取って、最終的に北朝鮮美林(ミリム)飛行場に到着後、北朝鮮に投降したハイジャック事件です。
 犯人9人のうち、63年5月には、犯行当時16歳の少年が不正に入手した旅券で日本に潜伏中に逮捕され、また、平成8年3月にタイで逮捕された田中義三は12年6月に日本に移送され、さらに、ハイジャック犯人のリーダー田宮高麿と吉田金太郎は、北朝鮮で既に死亡が確認されていることから、現在、北朝鮮に残留しているのは、小西隆裕、赤木志郎、魚本(旧姓安部)公博、若林盛亮、岡本武の5人とみられています。
 他方、昭和50年代半ばから60年代にかけて、欧州で北朝鮮工作員と接触していた不審な日本人女性6人に対し、海外での活動を抑止し、テロ活動を防止するため、63年8月、外務省は日本旅券の返納を命じました。平成4年になり、これらの女性全員がよど号犯人の妻であることが判明し、警察は、旅券返納命令に従わなかったとして旅券法違反事件で国際手配しています。
 妻子の帰国動向としては、16年1月までに計14人の子女が帰国しています。また、16年2月までに、3人の妻(赤木恵美子、小西タカ子、魚本民子)と赤木志郎の妹・赤木美智子が帰国しましたが、警察は、いずれも帰国と同時に旅券法違反で逮捕しています。
「よど号ハイジャック事件」
 (昭和45年3月31日、福岡)(PANA)
2 欧州における日本人拉致への関与
 平成14年3月、赤木志郎の妻・恵美子の公判で、よど号犯人の元妻が、「北朝鮮の金日成(キム・イルソン)から『代を継いだ革命を実施せよ』との教示を受けたリーダーの田宮高麿の指示で、昭和57年、私がロンドン留学中の有本恵子さんに声を掛けて騙し、デンマークのコペンハーゲンで朝鮮労働党・キムユーチョル及び魚本(安部)公博に引き合わせ、北朝鮮に連れ出した」旨の証言をしたことから、よど号グループが朝鮮労働党の指導の下、金日成主義に基づいた日本革命を目指して、日本人拉致に深く関与していたことが明らかとなりました。
 他方、昭和55年5月ころ、マドリッドから日本人男性2人が失踪した事案に関しても、北朝鮮は拉致を認めています。
 平成14年9月、警察は有本恵子さんに対する結婚目的誘拐の容疑で、魚本公博の逮捕状を取得し、国際手配を行っています。
日本が国際手配中のテロリスト
 平成8年12月、ペルーの左翼テロ組織が700人に上る人質を取って立てこもった「在ペルー日本国大使公邸占拠事件」が発生しました。この事件は、9年4月のペルー軍特殊部隊による突入により終結しましたが、我が国の権益や在外邦人に対する国際テロの脅威を改めて明らかにしました。
 また、近年、民族・宗教問題に起因する国際テロの脅威が深刻化する中、イスラム過激派を中心としたテロ組織が世界各地でテロを引き起こしています。
 中でも、国際テロ組織アル・カーイダは、イラクに部隊を派遣している米国その他の国々や、米国を支持する国々を非難し、ジハード(聖戦)を呼びかけており、日本も攻撃対象国の一つとして名指ししています。アル・カーイダによる13年9月の「米国における同時多発テロ事件」では、邦人24人を含む約3、000人が犠牲となり、世界に衝撃を与えました。
 また、東南アジアにおいても、イスラム過激派によるテロ事件が頻発しており、14年10月には、イスラム過激派ジェマア・イスラミアが、インドネシア・バリ島において邦人2人を含む202人の犠牲者を出す爆発事件を、15年8月にはジャカルタにおいて、米国系ホテルに対する自爆テロ事件をそれぞれ引き起こしました。
 イラクでは、15年11月に、我が国外務省職員2人を含む3人が襲撃、殺害されたほか、16年4月には邦人3人が武装グループの人質となる事件及び邦人2人が身柄を拘束される事件、同年5月には邦人ジャーナリスト2人が乗車した車両が襲撃を受けイラク人運転手を除く3人が殺害された事件等も発生しています。
 我が国は、イスラム過激派によるテロの根絶を目指す国際社会と共同歩調をとっており、また、我が国には、米国関連施設が多数存在していることから、我が国がテロの標的とされる可能性は否定できません。また、海外にいる日本人がテロの巻き添え被害に遭う可能性は、今後も十分に考えられます。 inserted by FC2 system