人権というまやかし
 「権利」は英語の「RIght」の訳語ですが、英語圏における「RIght」は、神から与えられたものという語彙があります。
 神のご意思にかなったものが「RIght」であって、人の道に外れた者には「RIght」は認められないのです。つまり、人殺しや悪党に、人権も権利もありません。もっといえば、西洋においては異教徒にも人権も権利もありません。彼らにとって人とは神と契約を交わした者たちだけを指すからです。
 そうであれば日本における人権や権利は、日本国内における天皇の「おほみたから」だけに与えられたものです。臣民としての道に外れた反日主義者や反天皇主義者、犯罪者、悪党、強姦魔、日本人のような顔をして日本語を話し日本人になりすました外国人には、人権も権利もありません。
 ところがいまの日本では、人権も権利も天賦のものであって生まれながらに備わっているという間違った考えを刷り込む洗脳工作が報道機関等によって為されているのです。

 GHQに与えられた現行憲法は、「人権」を、国民主権、平和主義と並ぶ憲法の三代原則のひとつとしています(基本的人権)。
 そこから基本的人権は、誰もが生まれながらにして持つ、とても素晴らしい権利だと、これは日本人はほぼ完全に思いこまされています。
 ですから「権利は大事だ」、「人権を守るのだ」と聞けば、多くの人は、
 「自分たちの人権が守られるのだから、それはとっても良いことだ」と感じます。
 逆に「人権蹂躙(じゅうりん=踏みにじられること)」と聞けば、なにやらとっても危険なことと思い込んでいます。
 学校では、「人権」は、
 1215年の英国のマグナ・カルタ
 1628年の権利の請願、
 1679年の人身保護法、
 1689年の権利章典等において、
 封建領主たちが自分たちの要求を国王に対して認めさせた英国人の伝統的な権利や自由の尊重を求めたものと教えられます。
 国王の絶対主義的支配から、
 民衆が自分たちの権利を護るためにこれらの要求が行われ、
 これが近代人権思想へとつながり、
 18世紀には市民革命として王制が否定され、
 1776年には米国バージニア権利章典、
 そして1789年のフランス革命での人間と市民の権利の宣言へと
 つながったと教わります。
 学校で教わるのです。テストに出ます。
 だから、多くの日本人はこれを「人権」の歴史として、無批判に受け入れています。
 ところが実は、その「人権の歴史」そのものに、大きな嘘があります。
 どういうことかというと、日本の戦後の日本国憲法に書かれた「人権」と、欧米における「人権」とは、実はまったく異なる概念だからです。
 このことを見るのに、アメリカの独立宣言の一般的な訳がわかりやすいと思うので、原文と一緒に引用します。
 (原文)
  We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.
 (日本語訳)
 われわれは、以下の事実を自明のことと考えている。
 つまりすべての人は生まれながらにして平等であり、
 すべての人は 神より 侵されざるべき権利を与えられている。
 その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている。

 同じ文について、学研M文庫でも次のように訳しています。
  我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。
 すべての人間は平等につくられている。
  創造主によって
 生存,自由そして幸福の追求を含む
 侵すべからざる権利を与えられている。

 要するにここで述べられている
 「人間が持っている
 生命、生存(Life)
 自由(Liberty)
 幸福追求(Pursuit of Happiness)
 の権利は、
  「神から与えられた」
 としていることです。
 「神から与えられた」のですから、当然のことながら西欧的な意味においては、神を信じない者、異教徒、神を信じる者に害をもたらす犯罪者、非合法手段を行なう反体制者などには、人権も権利もありません。
 もっというなら、
 悪党が暴力を振るう権利、
 人が泥棒や強姦などの悪事を働く権利、
 未成年の少女が自分の意思で売春をする権利、
 郷にはいって郷に従わない民族が他国に住み着いて勝手し放題をする権利、
 国家転覆を企む反国家行為を行う権利、
 自国の領空や領海を侵犯する他国の権利
 などの一切の非道徳的不条理な行動や思想は、神の意思として否定されます。
 ですから米国の独立宣言にしても、そのことを、
 「創造主(=神、Creator)」と
 「通義(権利=Right)」という語で、二重にカバーしているのです。
 日本では、その権利が曲解され、たとえばどこぞの国の戦闘機が日本の領空を侵犯しても、その侵犯機が撃って来るまで、こちらからは撃っていはいけないとされています。
 冗談じゃあないです。
 いまどきの戦闘機というものは、相手が撃ってきたら、その時点でコチラは撃墜され、コチラのパイロットの命はなくなるのです。
 さらに人権は、国籍や出自、思想にかかわらず、すべての人に備わった憲法以前の自然権であり、その自然権を憲法は保証しているのだから、敵に撃ち殺されても反撃してはいけない、などという馬鹿げた妄想をし、その妄想に基いて外国人への、まるで治外法権を認めるかのような手厚い優遇(生活保護や犯罪者の放免など)が行われています。
 しかし、本来「Right(=権利)」は、神が与えたもうたものなのです。
 そして欧米では、神の子である自国の民を守るために、領空領海を侵犯された時点で、即刻撃墜、撃沈するのが、あたりまえの、それこそ「人権」であり「権利」であり、国民の権利を護る国家の役割とされているのです。
 「権利」という日本語は、幕末の秀才、西周(にしあまね)が「Right」を訳したものです。
 これについて福沢諭吉は、西周の「権利」という訳に、猛然と反発しています。
 そして福沢諭吉は、「権利」という訳語では必ず道を誤る。
 「Right」は「通義」と訳すべきであると主張しています。
 米国の独立宣言も、福沢諭吉訳版は、通義と訳しているのですが、
 こちらのほうが、断然わかりやすいです。
  「天の人を生ずるは、
 億兆みな同一轍(わだち)にて、
 これに附与するに
 動かすべからざるの
 通義を以ってす。
 すなわち通義とは、
 人の自から生命を保ち、
 自由を求め、
 幸福を祈るのたぐいにて、
 他よりこれをいかんとも
 すべからざるものなり。」

 明治の始めの訳ですから、言い回しは少しむつかしいかもしれませんが、福沢諭吉は、あえて「わだち」という語まで用いて、誤解曲解を避けようとしたわけです。
 「わだち」というのは、道路などにある車輪の跡のへこみです。
 つまり人の道です。
 諭吉は「Right」を「通義」と訳し、これは「人の道である」と説いたのです。
 現行憲法の、もとになっている英文も、基本的人権を原文は「Right」です。
 つまり、現行憲法の人権は、「人の道」のことをいうのです。
 そして日本においては、欧米における神の地位にある存在は、神の直系のお血筋であられる天皇にあらせられます。
 従って人権も権利も日本人なら、
  「天皇によって与えられた人の道である」
 とするのが、本来あるべき解釈です。
 ところが学校で、こういうことを教えない。
 メディアでもまるで放送しない。
 だから日本人は、人権といえば、天賦の権利、人が生まれながらにして持っている当然の権利だと誤解しています。
 本来、基本的人権は、まともな日本人にのみ与えられるべきものであって、その日本に反対する、つまり反日主義の者には、基本的人権はないのです。
 ところがいまの日本では、その反日主義者や犯罪を犯した悪党が「基本的人権」を高らかに主張し、それはおかしいという人を、レイシスト(差別主義者)だといって糾弾しています。
 本末転倒も甚だしい話です。
 世界の常識に従えば、日本は天皇を中心とする君主国です。
 そして君主国であれば、その国の人権(Human Right)や権利(Right)とは、
 「皇民としての道」
 だけを意味します。
 それ以外の一切の意味を持ちません。
 人権は、人間が持つ当然の権利ではありません。
 欧米人なら、神を信じ、神の意思としての正義を貫くことが、人権(Human Right)であり権利(Right)です。
 日本なら皇民としての道こそが「通議(Right)」です。
 そもそも権利が生まれながらにあるというならば、犬には犬権、猫に猫権、蚊には蚊権、ゴキブリにはゴキ権がなければなりません。
 蚊やゴキブリの生命の尊厳を護るために、人は蚊もゴキも殺したり、彼らが血を吸ったり台所を荒す行為さえも、これを彼らが生まれながらにして持つ当然の権利であって、何人もこれを侵害してはならない、とするのでしょうか。
 実に馬鹿げた発想というより、これは妄想にすぎないことです。
 人権や権利なる言葉は、非常に誤解を招きやすい言葉です。
 使い方を間違えれば、悪党のわがままや身勝手を擁護するものになってしまうのです。
 そうであれば、本来学校で、Rightや、Human Rights、つまり権利や人権の本来的な意味を、ちゃんと教育しなければならないのです。
 それをはき違えているから、まっとうに生きようとする普通の民衆のまさに権利が侵害され、逆に悪党や侵略者たちの悪辣な行為が、人権の名のもとに正当化されるという馬鹿げた現象が起こるのです。
 欧米では、この「Right」の意味は、学校でかなり厳しく教え込まれます。
 かつて、国王の権力は神の名のもとに正当化され、国王は民衆の生命財産を、欲しいままに奪うことができた、つまり民衆は王の奴隷であり、それが正当化されていたわけです。
 けれども本来、人は神のもとに平等である。
 だから、人は奴隷としてではなく、「生まれながらにして神の意思に沿って清く正しく生きる正当なRight(権利)がある」と教えられるのです。
 そして王権によって、そうした民衆が正しく生きようとするRIghtを守るために、マグナカルタが描かれ、民衆の権利が請願され、民衆の意思が尊重される民主社会を構築してきたのだ、というのが、彼ら欧米人の発想であるわけです。
 ですから欧米人は、外国人が自国内で悪辣な行為に及べば、それは神の意思、民衆の意思によって、これを排除します。
 悪党が拳銃を持って家宅侵入すれば、これを容赦なく撃ち殺す。
 なぜなら神のもとに正しく生きることを邪魔だてする者は、人が神のもとに正しく生きようとするRIghtを侵害する者だからです。
 きわめて常識的な発想です。
 これに対し日本はどうかというと、もともと奴隷という制度はありません。
 日本では、民は天皇の「おほみたから」であり、権力者(臣)は天皇の民の幸せな生活を守り護るためにこそ存在する。
 日本における権力者は、天皇から委託を受けて、天皇の民の安全と安心と生存を守るためにこそ存在する者です。
 日本書紀では、天皇は「大君(おおきみ)」です。
 そして、民衆は「おおみたから」です。
 そしてその「おおみたから」という音に、日本書紀は「黎元」という字をあてています。
 「黎元」というのは、稲作をする人たち、つまりお百姓さんのことをいいます。
 民衆は天皇の宝であり、権力者というのは、その宝を守るために存在したのです。
 それがシラスという古くからある大和言葉の意味です。
 ですから全国の大名は、もともとは守護大名です。
 守護というのは、天皇の宝である民を守り、護るから、守護なのです。
 「人権」は、人の持つ通儀、すなわち「人の道」です。
 そして「人の道」は、天賦のものではありません。
 人として教育を受け、人の道をわきまえるようになって、はじめて人の道としての権利を主張できるのです。
 生まれながらにあるものではないのです。
 たとえば、人には自分の生命を守る権利(生存権)がある、といいます。
 それは人の道に外れない者にのみ許される権利です。
 だからこそ、人殺しや悪党には、死刑が宣告されることさえもあるのです。
 要するに、人殺しや悪党には権利も人権も、はなから存在しないのです。 inserted by FC2 system